三人で微笑み合い、私が二人に背中を向けたときでした。

 二本離れた柱の近くでグラスがいくつも割れる音がし、女性の金切り声が聞こえました。

「なんですって、それはどういう意味ですの」

 驚いてそちらを見ますと、波留子さんが高原財閥の保則さんと口論をなさっていたのです。

 それは、酔った保則さんが公隆さんと乙橘先生のご関係について、侮辱されるようなことを言われたからでした。

「いつまでも子宝に恵まれないのはご主人のご嗜好のせいでしょうかね、あの画家先生は男色を公言して憚らなかったとききますよ。それで乱心され亡くなったとか」

「乙橘のことなどわたくしは存じませんわ。主人ともなんの関係もございません」

「ああ、そういえば乙橘先生もあなたの夫君でいらっしゃった。あなたはそういった男性ばかりをお選びになるのですかな」

 亡くなった乙橘先生のことをそんなふうにおっしゃるなど、私は保則さんの人品の卑しさに恐ろしくさえなりました。

 そして、乙橘先生を「友人」と呼ぶ唯と公隆さんがどんなに傷ついたか、想像することもまた恐ろしくありました。

「一体なにがおっしゃりたいのかしら、高原財閥の保則様。門倉が銀行からの融資を妨害したと勘繰っておられるそうですけど、高原様はもう傾いたも同然、ともっぱらの噂ですわよ。どなたもがご存知だわ」

「なにをそんな根拠のない。噂のもとは波留子さん、あなたでしょう。お綺麗なご主人に可愛がっていただけない腹いせですかな。そうそう、最近は美少年にご執心らしいですが、お淋しいでしょうな、独り寝は」

 美少年とは、唯のことをさしているのでしょうか。一体どなたがそんなことを仰っているのでしょう。あんなに傷ついた唯。やっと立ち直ってくれた唯。

 その保則さんの言葉に、その場は騒然となりました。が、とにかく広いホールですから生演奏の音楽や招待客の話し声にかき消され、騒ぎはこの周辺だけでなんとか落ち着いてくれそうな気配も確かにあったのです。しかし、波留子さんの眼が唯の隣に立っておられる公隆さんを見つけておしまいになりました。それは、飢えた猛禽類が地上の善良な小動物に襲い掛かるような勢いでした。

「あなた、どうなんですの。あなたのせいでわたくしがこのような恥をかかされているのですよ。どう申し開きをなさるおつもり」

 何故か、矛先は公隆さんへと向けられてしまいました。「あなたのせい」と波留子さんは言われましたが、公隆さんが何をしたというのでしょうか。波留子さん、あなたは何故公隆さんとのご結婚を望まれたのですか。あなたは公隆さんの何をご覧になっていらしたのですか。

 あなたは、公隆さんを愛してはいらっしゃらないのですか。

 言葉が喉まで出かかっておりましたが、私の出る幕でないことは明らかです。唯は怒りに震えているようでした。敬愛する公隆さんが目の前で侮辱されているのです。波留子さんを睨みつけ、高原様に殴りかかってゆきそうな形相でした。公隆さんは少し頬を緊張させていらっしゃるように見えましたが、落ち着いた声でおっしゃいました。

「申し開きなど必要ない。君はいったい何を望んでいるんだ」

 波留子さんが望まれたもの……それは何であったのでしょう。

 公隆さんのお言葉に、私は改めて思いました。地位や名声や財産に執着し、より多くのものをお手に入れたいと望んでおられたのでしょうか。公隆さんとご結婚されたのは、公隆さんのお心が欲しかったのではなく、その外見のみが必要だったということなのでしょうか。宝石やドレスと同様に美しい男性でご自分を飾りたかったのでしょうか。そして伯爵家の財産と人脈。すべてを手に入れたはずが、開いてみた掌には何も入っていなかった。虚ろな喪失感が波留子さんのお顔にお面のように張り付いて、それは不気味なご様子でした。

「わたくしが望むもの、それをあなたがくださるとおっしゃるの。……そうですわね、乙橘の時といい、今回のことといい、そろそろ潔白をご証明なさってくださらないかしら」

「どうすれば証明になる」

「やはりお腹を切ってお見せになるのが一番でございましょ。美しき日本人ですもの」

 公隆さんがお腹を切られる……波留子さんは比喩で仰っているおつもりなのですか、それとも……。

「切腹ですわ。何もやましいことがないのならば、お出来になるでしょう」

 波留子さんの声は震えておいででした。取り返しのつかないことを言ってしまっているという自覚に恐怖しているのでしょうか。それともその紅潮されて引きつったお顔は、恍惚をあらわしているのでしょうか。

 しかし、波留子さんは長年の公隆さんに対する劣等感から蓄積された鬱憤をはらそうというのか、嗜虐的に公隆さんに詰め寄ります。

「どうなんです、あなた。お出来になるのかならないのか、はっきりしてください」

 公隆さんは、唯をそっと手で制し、ゆっくりとお答えになりました。

「わかった。それで終わらせよう」

 波留子さんは息を呑み、眼球が飛び出しそうなほど驚かれたご様子でしたが、もう後には引けなくなっていらっしゃいました。お手伝いの方に命じて大広間の続き部屋に切腹の舞台を急いで作らせました。

 その準備が整う間、公隆さんはお一人で静かに座っておられました。

 その場の誰もが、波留子さんがお考えを改めるのだろうと、この馬鹿げた成り行きを見守っておられます。ここでこれから切腹が行われようなどと本気で思う方はいらっしゃらないはずです。

「さあ、準備が整いましたわ。あなた、こちらへどうぞ」

 そこにはこのホテルの客室で使用されていると思われる、白いシルクのシーツが敷かれ、その上には短刀、奉書紙などが用意されておりました。

「お作法はご存知ですわね。潔白と誇りを証明していただきますわ」

 波留子さんの言葉に、公隆さんはお答えになりました。

「これは君のための出し物などではない。勘違いするな。わたしが守りたいものは、君とは無関係だ」

 波留子さんは何もおっしゃいませんでした。いいえ、声を発することさえできないほど、公隆さんが波留子さんに向けられた視線には冷たい輝きがありました。まるでそこに横たわる白刃のように。

 公隆さんはそっと白布の上に進み、置かれた短刀の前に正座されました。そしてお召しになっていた上着を静かに脱ぎ、丁寧に畳んでご自分の横に置かれます。白く美しい指が純白のシャツのボタンへと伸び、一番上から外していかれます。

 ご婦人たちは短い悲鳴をあげ、次々と退室されてゆきました。

 男性たちは、このご夫婦の意地の張り合い程度に思っておられるのか、どなたも退室されず、公隆さんと波留子さんを交互に見つめられ、その緊張感を楽しむ気配さえありました。

 シャツのボタンを外し終えた公隆さんが前を開かれました。

 その数センチの間からのぞく公隆さんの胸の白く美しい肌は陶器のようで、ゆっくりと呼吸される度に上下する肩から胸の動きは流麗で、舞を見ているようでもありました。

 それから公隆さんは、ズボンのベルトを両手でぐいっと下げられ、お臍の少し下で固定するようにきつく絞めなおされました。

 きっと波留子さんがお止めになるのでしょうが、私もこれ以上この場にとどまるわけには参りません。

「唯、私たちも下がっていましょう」

 公隆さんを真っ直ぐに見つめている唯を促し、その場を辞そうとした時です。

「唯くん、きみには見届けてほしい」

 公隆さんが唯に向かって仰いました。二人の間には、互いをつなぐ光の道があるようでした。唯はしっかりした声で「はい」と答え、姿勢を正すと私の手を強く握りました。

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