空華 ー くうげ ー

麻倉聖

  ねえさま、ねえさま。早くいらして。櫻が散ってしまうよ。


 花曇りというにはまだほんの少しだけ早い今日、三月四日は唯の十八回目の誕生日です。公隆さん、唯はもう十八になったのですよ。

 立春が過ぎてからもうひと月経つというのに、今年はまだまだ寒く、今朝は庭のあちこちに霜柱が立っておりました。

 空を見上げると灰色の雲が低く重そうに垂れ、いまにも雪が舞い降りてきそうな色です。

 しかし、こんな日にも唯は外へ行きたいと言ってききません。この三年の間、毎日欠かさず同じ場所へ行こうと私にせがむのです。

 あなたのように美しい青年に成長した唯の姿は、それだけに一層悲しく、三年前のあの日の出来事を繰り返し私に思い出させるのです。



 五つ違いの弟、唯が初めて公隆さんにお会いしたのは、今からちょうど十年前の、私が十三、唯が八歳になったばかりの頃でした。

 公隆さんは、私たちの父である充教のご学友、佐倉有信伯爵のご長男でいらっしゃいます。

 佐倉伯爵ご夫妻には、それまでに幾度かお目にかかったことがございましたが、公隆さんは十二歳の頃からずっとヨーロッパに留学されておりましたので、それ以前にお会いする機会もなく、ご幼少の頃にご家族で撮られたお写真で、お顔を拝見していただけでした。

 あの日は、私たちの祖父である國充の葬儀が行われておりました。

 どこからか白梅の清楚な香りが漂って、扉を開け放した会場に満ちているお線香の煙と混じり、清潔で優しかった祖父の面影と重なりました。

 佐倉伯爵ご夫妻は午後の早い時間にご会葬くださり、父・充教と祖父の思い出を語られていらっしゃいました。

 十八歳になられた公隆さんは、その二日ほど前に留学先のオーストリアからご帰国なされたばかりで、当日もウイーンの楽団の演奏会にお出かけのはずでしたが、伯爵ご夫妻がお帰りになったあとの、祭壇を飾る遺影に夕日が淡紅色の光彩を注ぐころ、祖父のためにおはこびくださったのです。お見えになったのはちょうど私が席を外していたときでした。

 祭壇の前にお座りになり、お線香をおあげになる公隆さんの真っ直ぐに伸びた背中と、白くすっきりとした頚すじは大層美しく、会場に戻った私がどなただろうと母に訊こうと思ったときです。お焼香が済み、こちらに向き直られた公隆さんのお顔は、まるで外国の映画俳優のように美しく整っておいででした。


   雲鬢・花顔・巧笑倩たり・美目盻たり


 心の中に、思わず美しい女性を讃えることばが浮かびました。ですが、決して公隆さんのお顔立ちが女性的ということではございません。

 墨を流したような涼しげな目許は知的で優雅で、すっきりと通った鼻梁と、きりりと結ばれた口許は、とても繊細ですが男性的でした。

 ふと隣に座る唯を見ると、やはり公隆さんに見惚れているようでした。黒く大きな瞳を輝かせて公隆さんを見つめる唯の小さな手を握り、「お行儀が悪いわよ」と小声で叱ったのを憶えています。


 そして、次に私たちが公隆さんにお会いする機会は、祖父の葬儀から四ヶ月ほどののちにやって参りました。

 オーストリアで音楽を学んでいらした公隆さんが、ピアノとヴァイオリンをご披露くださる小さなパーティーを伯爵が催されることになり、その席に父と母、そして私と唯の家族全員でお招きいただいたのです。

 佐倉邸は緩やかな丘の中ほどに位置しておりました。凝った意匠の施された門扉の両側にはよい香りのする樹木が植えられた生け垣があり、広い前庭には可愛らしい花が咲く花壇と、きれいな丸い形に刈られた月桂樹が並び、領事館のようなモダンなお屋敷からは、お菓子を焼く甘い香りが漂っています。

 テラスから続く広間の扉は、手入れの行き届いた美しいお庭に向けて大きく開放され、その広間に置かれた公隆さんのピアノは、白鳥が翼を広げたような形に美しく彫刻された蓋を持つ、艶々と漆黒に輝くグランドピアノでした。

「エカテリーナ宮殿の黄金の間にいるような豪華さですわね」

「この天井画のお見事なこと。溜め息がでるようですわ」

 母の前の席に着いていらした、高宮子爵夫人が小山内財閥の芙美子様と小声でお話しになっているのが私の耳にも届きました。エカテリーナ宮殿なぞ私には想像もつきませんが、公隆さんのピアノが置かれたこの広間は、真珠のように淡くきらめく白い壁と天井で囲まれ、そこにはヨーロッパのお城を彩るような美しい花と、優しげな森の風景が描かれておりました。

 ぐるりと見わたしますと、森の木々がそよと吹く風に葉を揺らす音が聞こえてくるようです。

 私は目を閉じ、その場で椅子に掛けたまま、森の様子を想像いたしました。なんて爽やかで気持ちのよい場所なのでしょう。調度や意匠の価値など判らない私ですが、この広間の居心地の良さは、佐倉伯爵様のお人柄をあらわしているように思えました。

 そして招待された方々が皆さまご着席になると、盛装の公隆さんがご登場されました。そのあまりの美しさに、ご婦人たちの口からは溜め息が洩れ、それぞれの纏われた香水の香りがいっそう強く立ちのぼり、まるでその場所だけ温度が上昇したように、会場は不思議で異様な雰囲気に包まれました。

 男性たちが立ち上がって拍手でお迎えになると、ようやくご婦人方も我に返ったように手を叩きはじめ、その拍手はやがて大きな波のように広間に響きました。

 隣の席に着いていた唯がふいに手を伸ばし、私の手をぎゅっと握り締めました。その幼い手のひらはじっとりと汗ばみ、息苦しそうに公隆さんを見つめています。こんな小さな子どもにもこの場の空気が伝わるものなのだと、可笑しく思いました。そう、唯は幼かったのです。或いは、母と私が可愛がり、世話を焼きすぎていたせいかも知れません。同じ学級のお友だちよりも、よい意味で唯は幼く純真でした。

 公隆さんは広間の招待客に向け、右腕を水平に上げるとそのまま空中で優雅な弧を描き、バレエのようなお辞儀をされてから、静かにピアノの前の椅子にお掛けになりました。

 目を閉じて背筋を伸ばし、一度深く呼吸をされると、静かに瞼をあげ、鍵盤に白い指先をのせてほんの少し首を傾げるような仕草をしながら、ピアノを愛でるように弾き始めました。

 僅かに揺れる上体、ゆっくりとペダルを踏む艶やかな黒い靴、しなやかな腕からつづく指先。はっとするような長い睫毛の端正な横顔。時に優しく、時に激しく、曲がクライマックスに近付いてゆくときの、苦しげに閉じられた瞳と、空気を求めて微かに喘ぐように開かれた唇。公隆さんの奏でるピアノの音は、公隆さんの音楽は、優雅で奥ゆきがあり、感動的で、そして官能に満ちていました。そして何よりも公隆さんご自身が、優れた芸術品のような神々しいまでの輝きをまとわれておりました。

 普段はクラシック音楽などを聴かせても、ちっとも大人しくしていない唯が、目を瞑りうっとりと音の中に身を任せています。私は自分自身も、心の内側を揺さぶられるような公隆さんの音楽に感応しながらも、唯のような幼い者がいるべき場所ではない、と感じはじめておりました。私の気配を感じ取ったのか、唯も目を開けて緊張の色を頬に漂わせています。ふと気になりこっそりと周囲を見回しますと、お子様をお連れの方は私たち以外にはおられません。「華族会館に招かれたわけではないのだから気楽に出掛けよう」と、ゆうべ父が笑顔を見せておりましたが、私はにわかに緊張し、唯の汗ばむ手を握りなおして反対側に座る父と母に視線を向けました。二人とも、他の方々と同様に目を閉じて、音に酔うように首をゆるやかに動かしています。

 公隆さんと、そのピアノの音に誰もがひれ伏し、支配されているかのようなこの空間で、私と唯だけが処刑される瞬間を待つ殉教者のように、甘美な恐怖を味わっているようでした。

 心臓は早鐘のような鼓動を繰り返し、呼吸もままならないほどの緊迫感です。私と唯は手のひらをつよく握り合い、互いの手の甲に食い込む爪の痛みを感じることで、やっと意識を保っていられるような状態でした。

 はっと気づくと、広間は割れんばかりの拍手と歓声に包まれています。その中心にいらっしゃる公隆さんは、はにかんだように少しうつむき加減で微笑まれ、みなさんに感謝の言葉を述べられました。

 一時間近い演奏のうち、ショパンとシューマンを一曲ずつ、あとの曲はすべて公隆さんがお作りになった曲なのだそうです。

 とくに、私と唯がどこか別の場所へと魂を連れ去られていたときに演奏された最後の曲には多くの方が賛辞を呈され、公隆さんはとても嬉しそうでした。霞のような記憶の中で、その旋律は天上界から降りそそぐ燦雨のように、私と唯を優しく濡らしてくれました。そうして浄められた私たちも、ようやく公隆さんに拍手を送ることができたのです。

 ピアノの演奏が終わり、お庭でのティーパーティーが始まりました。ヴァイオリンはそれよりのち、陽が落ち始める頃にご披露くださるとのことでした。

 いずれ伯爵家を継がれる公隆さんです。政財界の方々が後ろ盾にと望まれているのでしょう。美しいドレスや着物をまとわれたお嬢様を伴っての方が多くいらっしゃるようでした。

 お庭では、よくお手入れされた濃いみどり色の芝に初夏の陽射しが照り映えて、白いテーブルと椅子が眩しく見えました。葡萄の蔓と葉のレリーフがきらきらとしたガラスの水差しに、たっぷりの氷とルビー色の紅茶が入れられ、お手伝いの方がテーブルを回って、たくさんのグラスに注ぎ分けてゆきます。

 その他には、さまざまな果物が美しい飾り切りにされて盛られた大きな銀のコンポートや、指で摘めるくらいの可愛らしい洋菓子が並べられたお皿などがいくつもいくつもありました。

 果物の甘く爽やかで濃密な香り、その中で溺れてしまいたいと思うほど美しく透き通った冷たい紅茶、美術品のようなプチ・フールに、ドキドキするほど赤い血を滲ませたローストビーフ、可憐な白さのチーズなど、私と唯には贅沢すぎるようなものが品よく並んでいました。

 唯はこんなにたくさんのご馳走を初めて見たように目を輝かせ、父も母も楽しそうです。私は、この日にお招きいただいた感謝の気持ちを佐倉伯爵様にお伝えしたいと思い、父にそう告げようと向き直りました。

「華代子夫人、ごぶさたしております」

「あら、池内様ごきげんよう。今日はどなたかとご一緒にいらしたんですの」

 ちょうど母にご挨拶された方がいらして、私は慌てて言葉を呑みこみ、その方に目礼いたしました。

「こちらがお嬢様ですか」

「ええ、十三になりました。まだ女学校に通っております子どもですわ」

「ご謙遜を。将来が楽しみな美しいお嬢さんですね」

「こちらは海軍中尉の池内芳則さん」

 母に紹介されたその方は、胸に三つも勲章のついた軍の制服をお召しになった、とても大人で素敵な男性でした。私も挨拶をし、唯をご紹介しようとしたときに、隣のテーブルから大きなサクランボが一粒転がり落ちてきました。艶やかな芝の上を滑るように転がって、それは私のすぐ足もとで止まりました。緑の芝の上のサクランボは、陽を浴びてキラキラと輝く珊瑚のようです。このまま忘れられ、干からびてしまうにはあまりにも可哀想な気がして、お行儀が悪いと思いつつも拾い上げようと屈んだ途端、先の尖った靴に踏まれ、たった今まで輝いていた珊瑚は私の目の前でぐしゃりと潰れてしまいました。私は驚いてその脚の主を見上げました。緋色の靴に紫色のレースのドレスをお召しになっています。なんて悪趣味な方でしょうとお顔を拝見すると、眉間に大きなほくろのある、きつい印象の女性でした。

「いやだわ、汚い」

 芝に靴底を何度もこすりつけたその女性は、屈んだままの私に向かっておっしゃいました。

「まあ可愛らしいお嬢さんね、芳則さん、紹介してくださらないの」

 池内海軍中尉のお連れの女性のようでした。池内様は慌ててその女性の手を取ると、父と母に会釈しながら去ってゆかれました。

「門倉財閥の波留子さんね、相変わらずだわ」

 池内様と、波留子様とおっしゃる女性の背中を眺めながら、母がそう呟きました。母がどなたかのことをそんなふうに話すのは初めてのことで、私は驚きました。

「お母さま、ご存知の方なの」

 母が溜め息をつきながら曖昧な笑顔を私に向けたときです。 

 さきほどの広間の方からピアノの音が聞こえてきました。見ると、つい今しがたまでテーブルについてソーダ水を飲んでいた唯が、あの公隆さんのグランドピアノを立ったまま弾いていたのです。それは、一昨日習ったばかりの「のばら」でした。公隆さんの大切なピアノのはずです。もし何か間違いがあったら、伯爵様になんとお詫びをしたらよいでしょう。父も母も蒼ざめた様子でした。お庭にいらっしゃるみなさんはお喋りに興じていて、まだ気づいていないようです。私が行って止めるのが一番だと思い、こっそりとテーブルから離れようとしたとき、広間の奥の方から公隆さんがピアノに近付いていかれるのが見えました。

 公隆さんがご不快ではないかとはらはらしておりますと、公隆さんは唯の背後から覆いかぶさるようにして立たれ、小さな手にご自分の手を添えられて唯と一緒に「のばら」を弾いてくださったのです。すると唯の手は止まりました。自分の繊い指を乗せた鍵盤のすぐそばに置かれた公隆さんの白く美しい指をみとめると、代わりに細く高い声で歌い始めたのです。これも習ったばかりのドイツ語の歌詞を、美しく澄んだ声でピアノに合わせています。

 お庭のあちこちで談笑されていた方々が、お話しをやめて公隆さんのピアノと唯の歌声に耳を傾けています。私は、自分の弟がこんなにも愛らしい声で歌うのだなんて知りませんでした。

 曲が終わると、公隆さんは唯の手をお取りになり、微笑みながら並んでお庭のほうに向き直ってお辞儀をされました。みなさんの温かい拍手の中、唯は頬をばら色に染めて満足げでした。燦々と降り注ぐ初夏の陽射しを受けて微笑む二人の姿は、今でも昨日のことのように思い出されます。

 思えば、唯はこの日のこの瞬間から公隆さんに恋をしていたのだと思います。いいえ、もしかしたら、あの祖父の葬儀の席で公隆さんに初めてお目にかかったときから、唯の胸の中に芽生えていたのは憧れではなく、幼い恋心だったのではないでしょうか。


 それから、唯にとりましては夢のようなことが起こりました。公隆さんが週に一度、我が家においでくださって唯にピアノと声楽を、さらには書や古典などの貴族的なおたしなみをお教えくださるというのです。

 伯爵家のご子息が家庭教師のようなことをなさるなど、伯爵様と佳志子様が反対されるのでは、と私は少し心配になりましたが、公隆さんは唯を「友人」とお呼びになり、伯爵様も笑ってお許しくださったそうです。

 公隆さんが我が家にいらっしゃる日は、唯は朝から大変なはしゃぎようでした。ばあやのミツをはじめ、そのほかの手伝いの者と一緒に家中を掃き清め、ピアノを磨き、テーブルに花を飾り、と普段は決して気づかないような隅の埃にも気を配り、楽しそうにお迎えの準備をしておりました。

 あるときミツが気を利かせて、ピアノの上にそれは見事な深紅の薔薇を飾ったときは「ピアノは湿気を嫌うんだ。花を飾りたいなら造花をね」などと公隆さんの口調を真似て言ったりと、本当に嬉しそうでした。

 十も年下でしたが、どういうわけか公隆さんは唯をお気に入りで、留学先のオーストリアの街並みの美しさや、東京とは比べ物にならないほどの冬の寒さ、どんなものが美味しかったか、演奏会がどんなに素晴らしかったかなどの思い出話や、伯爵家のこと、さらには将来なにをなさりたいかなど、色々なことをお話しくださっていたのです。それは公隆さんと唯の、優しく美しい濃密な時間でした。

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