水屑

雪桜

水屑



海の犠牲者は私の肉親だった。

覚束無い足跡。安心と不安の間で揺れる生命の灯火から、私達は目を逸らしていたのだ。真白い壁だけを覚えている。アルコールの匂い。そして、母の涙。力なく横たわるその身体は、生命に無惨に殺されたのだ。細すぎる手足。そこから繋がる点滴。無音。曖昧な、静寂。


私は勿体ないな、と思って、そこにあったコップに母の涙を掬った。泣き出しそうだったのは、私の方だった。母は力なく笑った。濡れた瞳は窓の外の工業地帯に天使を浮かべていた。私は嫉妬した。コップを置いて、泣かないでと言った。項垂れていた父は唐突に立ち上がり、もう辞めろと私を打った。私は昔からそうだった。真白い壁だけを覚えている。母の涙。父の掌。アルコールの匂い。私は人の絶望に寄り添う術を知らなかった。幼かった私は、息を止めた肉親をただの肉の塊としか思っていなかったのだ。小さな、小さな命。呼吸をしていない、命。鼓動の聞こえない、命。霞む幾つもの花の上に寝転ぶ、命。美しいその手を握って、私はこの世界を恨んでいるのか聞いた。彼は何も答えなかった。緩やかな時間。真白な壁。真白な時間。


彼は海の藻屑となった。

彼は今も、空と海の境界線で漂っている。ふわり、ふわり。吐き気がする。涙が出る。海は私の肉親だ。空は私の肉親だ。


あれから何年も経って、何年も経って、あの時と同じ気持ちで浜辺に足を埋めた。地平線を見た。父の分厚かった手はすっかり老いぼれてしまった。燃える水面に、魚が跳ねた。母はもう泣かなくなった。広がってゆく波紋が、私の魂を浄化した。彼の足跡だ。愛しい肉親の、足跡だ。

私は呼吸を止めた。潮の匂いと、彼の死臭が似ていたから。私は、呼吸を止めた。

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水屑 雪桜 @sakura_____yu

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