夜明け前

 山の上の病院。

 高校に入学してからも、久しぶりの学校生活ということもあり精神科の病院の診察は続いていた。

 不登校当初の引きこもりの時から適応指導教室に通い始め、高校入学に至るまで六年もの間、臼井先生は私の話を聞き変化を記録していた。

 その間に臼井先生も結婚し、名字が変わっていた。


 高校三年生のとある診察の日。


「とうみちゃん、そろそろ病院も終わりでいいかなと思うんだけど」


 そうニッコリと柔和に言われ、通い続けた病院が残り数回のカウントに入ったことを実感した。


「もしまだ心配だったら続けてくれてもいいんだけど…」

「臼井先生に会えなくなるのは寂しいけど…もう…大丈夫です」

 私は笑顔でそう答えた。


「うん」


 そこから数回、ついに長かった通院が終わる。


「長い間本当によく頑張ったね」

「お世話になりました」

「元気でね」


 臼井先生と固い握手をして、最後のお別れをした。



 病院を見渡す。

 見慣れた廊下、見慣れた会計口、見慣れた自販機。

 行き帰りの道中も、もう来ることはないんだと思うとなぜか清々しさと共に寂しさも込み上げる。


 初めに来た時はこんなに長く通うことになるなんて思いもしなかった。

 少し遠いこの病院に通うのが嫌で仕方なかった時もあった。


 現代のように心療内科や精神科にかかる人が多くなかった時代、精神科の病院に通院していることを適応指導教室や高校でも言い辛かった。

 途中でやめてしまう人も多い中、先生がもう大丈夫と太鼓判を押されるまで続けて通った自分を褒めてあげようと思った。

 送迎をし続けてくれた両親には頭が上がらない。



 臼井先生は高校三年生以降の私の人生を知らない。

 病院のカルテも高校三年生以降は白紙のままだろう。


「先生! 私高校に四年間通ってその後進学して四年大学に通ったんですよ」

「結婚して子どももいますよ」


 なーんて。

 自分の人生は自分自身で創っていけるものだと私は思っている。




 不登校になった時、父がバレー部顧問や担任に対して責任を問いに直談判しに行こうとしたことを後に聞いた。


 不登校になりそうな要素が全くなかった娘が突然心の病気になったら、学校に責任を問いたくなるのも無理はない。

 当時の私は事を荒立てることも、清原と関わることも嫌で『自分が学校に行けなくなったのは誰のせいでもない』ということを主張していた。


 清原の指導に問題がなかったかと言えばそうではないけれど、それが当然のように横行していた時代、ついていけない私の方に問題があったとされるだろう。

 実際バレー部で不登校になったのは、自分だけだったのだから。



 中学二年の夏休みの頃、清原から暑中見舞いのハガキが届いた。

 トラウマの原因である教師からのハガキのため、我が家でも『どの面下げてこんなハガキを』とまともに見なかったので詳細文などは定かではないが、ミスターチルドレンの「花-Mēmento-Mori-」という曲の歌詞に似た言葉が書かれていた。


 とてもいい歌詞、言葉なんだけど、原因となった当事者にそれを言われると嫌みにも聞こえてしまう。

 笑って咲ける花になるには、随分な時間と努力が必要だったよ…と。



 その後ファストフード店でバイトをしていた際、清原が一度お客様として来たことがあった。

 清原はすぐに私に気付いたようだったが、お互い挨拶なんてしない。

 私は「支えてくれる人たちのお陰で今こうして接客業で人前に出られるくらいの状態になりましたよ」と思いながら、笑顔で接客した。

 意地でも平静を装って笑顔で接客してやろうと思った。


 清原に自分のせいでという罪悪感があったかなんて分からないが、私はあんなことであんな場所のせいで自分の人生を終わらせるなんて真っ平ごめんだ。


 あの絶望の最中、恨み辛みで十二、十三の人生を諦めなくて良かった。


 そして、通いたくても通えない学校というものに対する強烈な羨望のような思い。

 大嫌い!でもそこに居たかった!という気持ちが根の部分にあったのだろう。

 それもあって私は大学生になって、学生時代をもっと楽しみたいと思ったのだと思う。

 失った時間を取り戻すかのように。




『最終日のこない夏休みだと思えばいいよ。 焦らずにやっていこうか!』


 精神科に通い始めた頃、五十代の医師が言った言葉を思い出す。


 人生は長い。

 そして、いい時や悪い時が誰しもある。


 私は、不登校で悩んだ日々を人より少し早く壁が訪れただけのことだと思っている。

 成長期で、まだ経験値も少ない中で回避する術を知らなかった。

 受け流すことや、緩急の差をつけることが出来なかった。

 多くのことを真に受けすぎて、キャパオーバーで爆発してしまった。


 でもこの経験値のお陰で、その後は上手く世の中を渡っていく術を身に着けたように思う。


 大変な時期は人それぞれ。

 それが私の場合、たまたま中学生の頃に訪れてしまい不登校になってしまった…というだけの話。

 これが大人なら、鬱病で休職した退職したと思えばそれ程特殊なことではないだろう。

 

 希望の高校や大学、企業には行けなくなるかもしれない。

 …でも、過去なんて語る機会もないわけだから、同じ場所にいるのであれば経過なんて関係ない。

「あの子不登校だったんだって」

 なんて、会社に入って言われることなんてないでしょう?


 不登校だった時代が例えあっても、そうじゃなかった人たちと現在同じ場所に立てているのなら…それでいいじゃないか!と思うのだ。

 当事者にとってそれが回り道だったとしても、取り返しがつかないなんてことはないはず。






 暗闇静寂の中、自分の生命活動が始まる。


 不登校になりたての頃、自分が生きられる時間が日没から夜明け前だった。

 家族がそれぞれ寝室へ行ったのを確認した後、私はゴソゴソと動き出しやりたいことをし始める。

 好きな小説を読んだり、漫画を読んだり、絵を描いたり、小説を書いたり。


 誰もいない静かな世界は自分の五感が研ぎ澄まされ、嫌なことが忘れられる唯一の時間だった。

 その時間だけが、生きていることを実感できる幸福な時だった。



 チュンチュンと雀の声が響きだし空が白む頃、憂鬱な一日がまた始まる。

 人目を避けることでしか生きられない、まるで吸血鬼のようだと思いながら、私は一人夜明け前の静寂な時間を愛でていた。



 この不登校体験記を書くにあたって、真っ先に思い浮かんだタイトルが「夜明け前」だった。


 一つは自分が生きられる時間が夜明け前だったことから。

 もう一つは夜明け前の少しずつ朝日が昇り空が白んでいく様が、心模様のようだと思ったからだった。


 死んだように生きていることが夜の闇だとするならば、夜明け前は少しずつ自分を取り戻し始めて希望が出てきた序章のようなもの。

 そのうちうっすら明かりが差してきて燦々と陽が照らすように、じわじわと自分らしさを取り戻していければいい。


 焦らず自分のタイミングで。


 陽はまた昇るのだから。

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「夜明け前」不登校体験エッセイ このめだい @okadatomi

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