第2話 引きこもりは幼馴染と共に一歩を踏み出す。

「いってらっしゃい、翡翠ひすい。それから、優月ゆづきちゃんも」


「はい、いってきます。おじさん」


 微笑んで答えた優月の視線の先にいるのは僕の父・甘党清治あまとうきよはる。スーツを着ている彼もすぐに家をでるのだろうが、登校の見送りをしてくれている。


 父は僕にとって、たったひとりの家族だ。

 目と目を合わせるには至らないまでも、そのくたびれがちなスーツに視線を向けた。


「……父さんも、いってらっしゃい。仕事、頑張って」


「ああ、翡翠もしっかりな」


「うん、いってくる」


 ぎこちない会話。しかしそれも、仕方ない。すぐにどうにかできるとも思っていない。


 隣にいた幼馴染だけは少し笑みを浮かべていた気がした。


 家を出ると、朝の陽ざしが視界を覆った。春の残り香を感じる。ドクンと、鼓動が早まるのを感じた。久しぶりの登校。その空気に身体が驚いているらしい。


「翡翠くん?」


「……僕の格好さ、変じゃないかな」


「んーん? ぜんぜん? むしろイイ感じだってわたしは思うよ?」


 優月は俯く僕を覗き込むように一歩近づくと、柔らかく笑みを作った。


「ちゃーんと、格好いいよ」


「……そっかな。そう、だね。うん、優月がそう言うなら安心して登校できそうだ」


「うんうん。大丈夫だいじょーぶ」


 優月が言うのなら、多少の贔屓はあれどそれなりの身なりにはなっているのだろう。なにせ僕を美容院に連れて行ったのも、制服の着こなしについて指導したのも、すべて彼女だ。引きこもりの自分よりは、幼馴染の感性を信じよう。


「あ、でも……そうだ。話は変わるんだけどね?」


 優月は途端に恥ずかしそうにモジモジと両手を合わせてくねらせる。その様子は幼馴染としての彼女が、女の子の彼女に入れ替わったかのように見えた。


「えと……ね? もうおじさんいないし、言うんだけど。その、今朝のことなんだけどね?」


「ああ、あれね。僕は別に――――」


「ち、ちがうの!!」


「――――へ?」


 優月は必死な様子で叫ぶような勢いでまくしたてる。


「あ、あれはえっとその、何にもやましいことはなくてね!? ……寝ている翡翠くんを見てたらその、わたしも眠くなってきちゃったというか! 寝不足だったし! 寝不足だったし! それに子供の頃はよく一緒に寝たなぁとかそんなことも思ってね!? そ、それで気づいてたら添い寝していたといいますか何と言いますか……っ!」


「いや、べつに聞いてないんだけど……」


 詮索はせず闇に葬るのが吉だと思っていたのだが、優月はなぜ勝手に暴露しているんだろうか。しかしここまでくると、知的好奇心として聞いておきたいことがある。あくまで、知的好奇心として。


「なんで、下着姿だったの?」


「ふえ!? そ、それはその……プライバシー! です!」


「それなら僕が寝ている間にベッドに忍び込むのも十分プライバシー的にはアウトじゃない?」


「翡翠くん、意外とぐいぐい来るときあるよね……」


「気になったんだから仕方ない。このままじゃ夜も眠れないよ」


「う、にゅぅ……」


 優月はバツが悪そうに目を逸らす。それからモゴモゴと小さな口を開いた。


「えっと、……わたしね? その……服着たままだと寝れなくて……い、家だといっつも下着で寝てるの……」


「そ、そうだったんだ……」


 思わぬ告白に、今度は俺ががたじろいでしまう。

 

 会話はキャッチボール。こちらから投げることはするくせに、返されるとどうしたら良いか分からない。引きこもりは当然のようにコミュ障だ。


 頭をフル回転して言葉を探し出す。


「あ、でも子供のころはそんなことなかったような?」


 先ほど優月が言っていたように、昔はよく隣り合って寝たものだ。その時の記憶を遡ると、優月はしっかりと服を着ていたように思う。


「あ、あの時とは違うの! わ、わたしだって成長してるんだからね!」


「成長……」


 果たして、服を着て寝ないことが人類として成長と言えるのか……それは置いておくとして頭に浮かぶのはあの柔らかい感触。


 自然とそこに視線は引き寄せられる。制服越しでもわかる、大きなふくらみだ。


「な、なに? どこ見てるの?」


「う、ううん? べつに?」


 さっと両手で胸元を覆う優月に、俺は慌てて顔を逸らす。


 逸らす寸前に見えた優月の顔は赤く染まっているように見えた。きっと俺も同じだろう。


「もうっ。これだから男の子は~っ。でも、とにかく今朝のことは忘れてください」


 優月は呆れたように言いながらも、言葉とは裏腹にこちらへまた一歩近づく。それから頭を柔らかく撫でた。


 あの頃、ほとんど同じくらいの位置にあった幼馴染の顔は今や少し下を向かないとよく見えない。


「翡翠くん、成長したね。とってもおっきくなった。わたしなんかよりずっと大きいねぇ」


「まあ、背は勝手に伸びるから」


 それ以外に何かが成長したかと言われれば思い当たることは特にない。むしろ後退している気さえするありさまだ。


「そんなことより、やっぱり優月の方が変わったよ」


「そうかな? どこが変わった? 胸、以外で……っ!」


「え、ええ!? いや、その……なんというか、可愛くなったといいますか……、うん、そんな感じ」


「むぅ……変わったところを聞かれてそれを挙げるって、なんかそれじゃ昔は可愛くなかったみたいじゃない?」


「い、いや! ちがくて! 昔も可愛かったけど今はもっともっと可愛くなったってことだよ!」


「そっか。そかそか。ふふ、よろしい」


 明らかに言わされたような気がするのだが、優月は満足そうにもう一度僕の頭を撫でた。


「ていうか、やめてって。それ」


「ん?」


「アタマ撫でるの。もう子どもじゃないし。同い年なのになんか子ども扱いされてるみたいだ」


 逃げるように一歩後ろへ下がる。


「え~、そんなことないけどなぁ」


「あるって。そういうのいいから」


「おお~、あれだね。翡翠くん、思春期ってやつだね。お母さん困っちゃう~」


「誰がお母さんだ!? おい!?」


「あはは、珍しく翡翠くんが怒った~」


 ひょいひょいと逃げるように先を駆けていく優月。追いかけて捕まえようとするが、なかなか手が届かない。引きこもりの運動不足が響いていた。


「はぁ……はぁ……待てって……優月……っ!」


「あ~あ~、息切らしちゃって。そんなんじゃ一日もたないよ?」


「優月の……せいじゃないかっ」


 ようやく止まってこちらを振り向いた優月に、息を整えつつ歩み寄る。


 優月はそんな僕を見て、微笑んだように見えた。


「まったく仕方ないなぁ。ほら、行くよ」


 こちらへ右手を差し出す優月。


 荷物でも持ってくれるのだろうか。それはさすがに男としてみっともない。断固拒否したいところだ。


「ほ~らっ、はやく!」


「え!? あ、おい!?」


 ボーっと突っ立っていると、しびれをきらしたかのように優月は僕の手を取った。そしてその手を引っ張るようにして歩き出す。


 高校生の男女が手を繋いで歩く姿は当然、周囲の視線を集めていた。


「これもやめてほしいんだけど……!?」


「いいじゃないこれくらい。お姉さんにまっかせて~!」


「だからお姉さんでもないって……」


 呆れつつも、抵抗する気さえ失せて優月の歩調に合わせた。


 今日の幼馴染は再会してからのいつよりも、どこか強引でテンションが高い。それが不器用な優しさなのだと知っていた。


「ね? もう大丈夫でしょ? それに、隣にいられるね?」


「……まあ、そうだね」


 気づけば、心臓は平常の鼓動を伝えている。そのまま手を繋いで、久方ぶりの校舎を目指した。



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