第62話

「やあやあやあ、いらっしゃい。さあどうぞどうぞ」


 土曜の昼前。

 矢崎さんとの約束で待ち合わせて出掛けた先は、社長のご自宅だった。

 都心の閑静な住宅街に、一際目を引く大邸宅に私は腰が引ける。なんか壁がすっごい高いしどこまでも同じ壁が続いているんですけど。


「成瀬君も。休みの日に悪かったね、まあゆっくりしてくれ」


 ブライトアンドカンパニーの現代表取締役・二階堂彬氏は、綺麗なグレイヘアに暖かそうなアランセーター姿。自社の社長でなければ『優しそうなおじいちゃん』という表現がぴったりな初老の男性だ。

 しかし私は緊張が全く緩まない。入社式と、あと何度か社内で見かけた程度だ。面識と言えるほどの経験もない。それなのにいきなりご自宅に上がるなんて。


 社長に案内されたのは二十畳以上ありそうな広々としたリビング。吹き抜けの天井は一体高さ何メートルなんでしょう。


「矢崎君と成瀬君、紅茶でいいかな?」

 笑顔の社長の後ろでは、これまた美しいご婦人が優しそうに微笑んでいる。矢崎さんに目で確認されて、私は頷いた。

「ありがとうございます。お気遣いいただいて」

「まあそんな。矢崎さんにこんな素敵な恋人がいたなんてびっくりよ。ねえ、あなた?」

「成瀬君の評判は聞いているよ。次のマネージャー候補だと、佐々木も言っていた」

 ええ?!常務、そんなフェイク要らないですから!

「女性なのに優秀なのね。素晴らしいわ。……さあどうぞ」


 奥様手ずから入れてくださった紅茶が供される。テーブルの上の大皿には焼き立てらしいマドレーヌ。

 絵にかいたようなセレブの休日のおもてなしに、また違う緊張感が襲ってきた。


「そうか、決まった人がいるというのは本当だったのか……、いやいや、うん、お似合いだよ二人は。残念だが、先方にはお断りしておこう」

 ニコニコしながら『残念』と言う社長に、矢崎さんは深々と頭を下げる。私も慌てて倣った。


「折角のお話だったのに。社長のお顔を潰すような真似をして、まことに申し訳ございません」

「何を言っているんだ。事情も知らず君を紹介したのは僕だ。むしろ気を使わせてしまって悪かったね。そうかそうか……、矢崎君が会わせたい人がいるというから誰かと思ったら、そうかそうか」


 何故か超ご機嫌で一人でウンウン頷く社長の言葉に引っかかりを覚える私をよそに、奥様もまたニコニコしながら合いの手を入れてきた。


「ねえねえ、お式はいつ?」


 その言葉に、私は目が点になった。

 オシキ?


「やっぱりジューンブライドかしら。今からなら半年あるから間に合うのではなくて?」

「仲人は佐々木になるのかな。私が受けたかったが、諦めるか」


 ちょ、ちょちょちょちょ、社長! 奥様!!


 とんでもない方向に話が転がり始めたので、本気で焦る。思わず立ち上がりかけた私を、矢崎さんはそっと肩に手を掛けて座らせてくれた。助かった。


「将来的には考えていますが、まだ今は……。僕も彼女も仕事が忙しいですし」

「同じ会社なんだし、タイミングを見れば大丈夫だろう。新婚旅行の間はプロジェクトからも外れていいぞ? 私が許す」


 社長、私が許すって……。

 矢崎さんの否定も全く聞いていない素振りの社長に、奥様が心配そうな顔を向けた。


「でもお仕事が忙しい時に、赤ちゃんでも出来たら大変よ? あなたの会社、産休や育休はちゃんと取れるの?」


 ものすごい暴走夫婦だ。奥様はともかく、自社の社長がこんな人だったとは。


「そうだなぁ、隣のビルを買い取って保育園作るか、社員用の」


 止まらない暴走、というか妄想に、私は矢崎さんを振り返る。矢崎さんも困ったように笑っていた。


「社長も奥様もそのあたりで。まだ具体的なことは何も話し合っていませんから……。彼女が怖気づいてしまうと困るので」

「おお、なんだそうだったのか申し訳ない。でも何かできることがあればいつでも相談してくれ? もちろん成瀬君も」


 そうねそうね、と、まるで自分の子どもか孫の結婚話を聞いているかのように嬉しそうな奥様と並んで、やっと社長が止まってくれた。やれやれ。


「二人とも、昼も食べていくだろう? 折角だからゆっくりしていってくれ」

「成瀬さん、嫌いなものや食べられないものはある? 私ね、何も出来ないけど料理だけは自信あるのよ」

「ありがとうございます。なんでも食べられます。楽しみです」


 顔を出した途端に『オシキ』の話までジャンプしたせいで、ちゃんとご挨拶もしてなかったのに名前を呼んでもらい食事の気遣いまでしてもらって恐縮してしまう。

 年の頃は私の母親よりずっと若いだろうが、温かな人柄はすぐに伝わってきた。実の母とは全く違う雰囲気に、思わず見とれてしまう。

 矢崎さんと社長が社内の話をし始めたのを潮に、私はそっと立ち上がり、奥様のそばへ行った。


「あの、何かお手伝いを……」

 邪魔にしかならないかもしれませんが。

 奥様は一瞬だけ驚いた様子で、すぐまた優しく笑ってくださる。

「嬉しいわ。じゃあお箸を並べてくれる? 箸置きも出してあるから」

 それくらいなら。私は頷いて作業に取り掛かった。


「うちは男の子しかいないから、こういうのいいわねぇ。娘が居たら楽しかったでしょうね」


 隣から聞こえてくる独り言のような奥様の言葉に、私の意識が一瞬過去へ飛んだ。


『こんな子なら居ても居なくても一緒ね』


 棘と毒しか含まれていない母の声。

 あの時はショックで怖くて何も言えなかったけれど。


 今なら言い返せますよ、お母さん。


『こんなお母さんなら要らなかった』

 と。

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