第29話
「もしもし……」
『ああ、矢崎です。これからお見舞い行きたいんだけど、大丈夫かな』
うっ、大丈夫か、と確認されると大丈夫じゃない。傍から見ればひとり暮らしの部屋に男性が居ると言うのはあまりよろしくない状況だ。
「えーっと、もうかなり良くなりましたので、お疲れでしょうから大丈夫です」
拒否感満載だったかな。でも来人が大人しく帰ってくれるとは思えないし……。しかし空しく、私の下手くそな演技はバレバレだったのか、電話の向こうから矢崎さんの苦笑が聞こえる。
『こんな時間に疲れてないよ。心配だから顔だけ見たいな。それもダメ?』
……さすが矢崎さん、上手な譲歩ポイント見つけてくれた。完全拒否では明日私が気まずい。それを察した上での提案だろう。こりゃもう断れないやつだ。
「そんな、ダメなんて」
本当はダメなんだけど。いや矢崎さんがダメなんじゃなくて私がダメなんだけど。
『じゃあタクシーで行くよ。二十分くらいかな、待っててね』
そこで、電話は切れた。ほんの数十秒の通話で、ため込んだ体力をがっぽり消化してしまった気がする。しかしここで終わりではないのだ。
私はリビングへ向かい、来人に声を掛けた。
「えーとね、これから会社の上司がちょっとだけお見舞いに来てくれることになったの。で、申し訳ないんだけど、席外すしてもらうか、今日はもう帰ってもらって大丈夫なんだけど……」
すると来人の目が鋭くなった。え、な、何か?
「上司って、男?」
「え、うん、そうだけど……」
「もしかしてこの前うちの会社に来た人?えーと、矢崎さんって言ったっけ」
よく覚えてるなぁ。二人が同席したのは一回だけなのに。
「うん。あと二十分くらいで着くらしいから」
「じゃあお茶の用意しないとね。あ、何か食べるものがあったほうがいい?」
「いや、そんなことしなくていいよ。それよりも」
「俺帰らないよ」
「……え?」
「あ、いや、誤解しないで。夜にはちゃんと帰るよ。でもこれから男が来るのに千早と二人きりに出来るほど、俺は大人じゃない」
来人が何か思い違いをしているような気がする。私が何を懸念しているのか説明しなきゃいけない。
「あのね来人。これから矢崎さんが来るでしょ、で、来人と矢崎さんは面識があるよね。でね……、私この前、矢崎さんから結婚を前提に付き合って欲しいって言われたの」
来人の目が見開かれる。まあそりゃ驚くよな。
「受けたの、それ」
「え?……いやいやまさか。ていうか次の日に返事は保留にしてくれって言われたし」
「付き合うつもりなの」
なんか怒ってる?そんなに変なこと言ってるかな、私。
「矢崎さんは大学の先輩で、今は会社の上司で……、すごくお世話になってるし尊敬もしてる。でも付き合うとかは考えたことない」
相手が矢崎さんじゃなくたって、私にはそんな関係の人はいらない。ルキウス様がいればいい。
私の言葉を聞いていた来人は、少しだけ沈黙はあったが、少し笑った。
「そっか……。でも安心した反面、今俺も振られたような気がした」
……エスパーですかこの人。
「でも話してくれてありがとう。大丈夫、どうしてここに俺がいるかは俺がちゃんと説明するから」
何が大丈夫なんだよ、と突っ込もうとしたところで、インターフォンが鳴った。
◇◆◇
玄関前まで矢崎さんが来てくれたので出迎えようとしたところ、来人に腕を引っ張られた。
「俺が出る」
「何言ってるの、私のお客さんなんだから」
しかし制止もきかず、来人が玄関ドアを開けた。
「ああ、体調悪いところごめ」
んね、って言いたかったんですよね。びっくりして止まっちゃったんですよね、矢崎さん。分かります、私もびっくりして動けません。
一人だけ余裕の来人がにこやかに挨拶した。
「お疲れ様です。玄関先と言わず、どうぞ」
お前ん家かここは。スリッパまで出して。お母さんみたいどころじゃない、奥さんですか。
唖然とする矢崎さんを、まるでエスコートするようにリビングまで案内し、来人はキッチンへ戻る。私はもう頭を下げるしかない。
「お仕事終わりにわざわざありがとうございます!」
「……え?あ、いや……、えと、立花さんでしたっけ、マックス社の……」
さすが、矢崎さんも覚えてた。理解が早いのが有難いのか困るのか。紅茶を人数分入れたトレイを提げて、来人が頷く。
「その節はお世話になりました。って、まだしばらく御社にはお世話になりますね」
すっかり仕事モードで挨拶をする来人に、矢崎さんも同じように返す。
「いえそんな、こちらこそ引き続きよろしくお願いします……。で、何故立花さんがここに?」
来た。当然の疑問に答えようとする私を、来人が止めた。
「以前から成瀬さんとは友人だったんです。お互い仕事先の話はしないので、まさか取引先の担当者同士になるとは思っていなかったんですが」
来人の説明は、本当のようで本当ではない微妙な表現だ。しかしこれが玉虫色の説明だと分かるのも、私と来人だけだ。
矢崎さんは確認するように私のほうを見る。目が『そうなの?』と言っているような気がして、私は頷いた。
「彼女が寝込むほど体調崩していたので、買い出し役も兼ねて見舞いに来てました。矢崎さんもお疲れのところすみません」
来人の説明と私の同意で納得したのか、さっきよりは肩の力が抜けた姿勢で、矢崎さんは何度も頷いた。静かに紅茶の入ったカップを手に取る。
「びっくりしたよ……。あれ、ここどこだっけ?とか思っちゃった」
「ですよね、驚かせて申し訳ありません」
いやいや、というように矢崎さんは手を振って否定する。
「成瀬さんも、友人なんて言わずに立花さんだって教えてくれても良かったのに」
言えません。そんなこと。
「そうだ、デパ地下で色々買ってきたんだ。三人で食べようか」
矢崎さんは持ち込んだ大きい紙袋を広げる。本当だ、フレンチ、中華、イタリアン……。何人分ですか。
「うわー、旨そうですね。じゃあ俺チンしてきますよ」
勝手知ったる場所かのように、さっと惣菜を手に取ると来人はキッチンへ向かった。
「俺も手伝おうかな」
何故か矢崎さんまでシャツの袖を捲る。男二人が狭いマンションのキッチンに並んで仲良さげに食事の準備を始めるのを、私は成す術もなく眺めていた。
ここ、私ん家なんですけど。
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