第28話

「……ダメだったかー」

 翌日の朝。まだ体に熱が籠っている気がして体温を測れば、まだ三十七度半ばだった。私は体温計を睨みながら思案する。会社へ行こうか、休もうか。

 今までの私ならきっと行ってた。しかし昨日来人から言われた『運よく体温は下がってもそこで無理したらまた上がる』という言葉を思い出した。確かにその可能性はある。

 仕方ない、今日だけは休ませてもらおう。私はスマホを取り出し、あて先を上司の矢崎さんに設定した。


『大変申し訳ございませんが体調を崩したため、本日欠勤させていただきます』


 ああ本当に申し訳ない。私は時計を見る。もうすぐ朝の八時だ。普段ならそろそろオフィスに着こうという時間にまだパジャマのままで家にいることが途轍もなく後ろ暗い。

 私はのろのろと起き上がり、昨日来人が大量に買い込んでくれたビタミンゼリーやスポーツドリンクを冷蔵庫から取り出すと、風邪薬と一緒に寝室へ持ち込む。無理やり胃に流し込み、再びベッドに潜り込むとスマホの着信音が鳴った。メールだろうと思って放置していたらいつまでも止まらない。仕方なく手に取ると、矢崎さんからの電話だった。


「はい、成瀬です」

 風邪のせいか、久しぶりに声を出したからか、おじさんみたいな嗄れ声だった。

『成瀬さん?!……大丈夫?』

 はあ、あまり大丈夫ではないのですが。

「おはようございます。申し訳ありません、休み明けに体調崩してしまって」

『こっちは構わないよ。それより体調は?病院は行った?』

「多分風邪だと思います。少しずつ熱は下がってきてるんで。ただ皆にうつしたくないのと、明日また休むようなことがあると申し訳ないので……」

『……熱が出てるんだ。成瀬さん、確か一人暮らしだったよね。心配だな……』

 私の話が半分くらいスルーされている気がした。一人暮らしの社員なんてたくさんいるし、皆年に何回か風邪くらい引くだろう。


「大丈夫です。昨日友達も見舞いに来てくれましたし」

 友達、と、自分で言っておいて変な感じがしたが、『たら』だと思えばそう呼んでも構わない気もする。今更ながら代わりに買い出しに行ってくれた来人に有難みを感じた。治ったらちゃんとお礼しないといけないな。

『分かった、じゃあ俺も仕事終わったら行くわ』

 ……え、いいのに、別に。

「いえ、あの、多分一日寝てれば大丈夫なんで」

『定時で上がってタクシー飛ばして……、六時半くらいになるかな。着いたら電話するから。あ、成瀬さんは何もしなくていいからね』

 この人も私の話聞いてない。ていうか最近の矢崎さんはほぼそうだ。やっぱりおかしいわ。

「週明けで忙しいのに、矢崎さんが定時で帰るなんて無理ですよ。私は大丈夫ですから」

『成瀬さんの大丈夫は信用出来ない。いいから君は余計な心配しないで、しっかり休んでね』

 一方的にそれだけ言うと、矢崎さんは電話を切った。本当に来るつもりなんだろうか……。お願いだから静かに眠らせてくれ……。


 昨日と比べると幾分良くなった体調が、今度は気苦労で悪化しそうだった。私は根っから人づきあいが下手なんだ。こういうのなんて言うんだっけ、あー、そう、コミュ障?


◇◆◇


 夕方、というかもう夜なのか。我が家のインターフォンが鳴らされた。矢崎さん本当に来たんだ。

 私はのろのろと立ち上がり、途中洗面所で簡単に身だしなみを整え、応答した。スイッチを押して画面に表示された顔は、来人だった。……あれ?


「どうしたの?忘れ物?」

『何言ってんだよ。見舞い。入れて』

 えーと、朝の話ではそろそろ矢崎さんも来るんだけどな。この二人、鉢合わせていいんだろうか。でも帰れとは言えない、どっちにも。何なんだ私は……。


 体調不良のせいだけではない疲れで思考を放棄して、私はセキュリティのロックを解除した。数分後、来人がやってきた。玄関を開けると、いきなりまた額に手を当ててくる。

「ああ、大分下がったみたいだね、まだ熱いけど」

「熱いかな、もう治ったと思ったんだけど。熱も七度まで下がったし」

「それ、千早の平熱?」

「違うけど」

「じゃあ下がり切ってないじゃん……。まあいいや、入ってもいい?」

 ああ、ずっと玄関で話してたんだった。私は体を引いて、どうぞ、と示すと、来人は前をすり抜けて入ってきた。


「昨日買った奴まだ全然残ってるじゃん。ちゃんと栄養取ってるの?」

「結構消化したつもりだけど……、たくさんは食べられないし」

「まあ、ゼリーばかりじゃ飽きるよね。今は?普通に食事出来そう?」

「多分……」

 言われるがまま返事をしていたら、来人が楽しそうに笑った。

「……何?」

「いや、千早が素直なのもあるけど、俺今おかんっぽかったよね」

 おかん……、ああ、お母さんのことか。

「お母さんって、こんな感じなんだ……」

 つい、ぼそりとそう呟いてしまった。自分の実の母を思い出して。


 子供の頃、私とて何度か寝込んだことはある。しかし母に今の来人ほどに世話を焼いてもらった記憶はない。どちらかと言うと、私を病院へ連れていくのも汗で濡れたパジャマを着替えさせてくれるのも、全部父だったような気がする。


 体調が悪い時に考えることじゃないわ。折角回復した体力が落ちる。

 慌てて過去への旅から自分を引き戻した時、寝室からスマホの鳴動音が聞こえてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る