第20話

 午後四時。予定時間の五分前に立花が一人でロビーに現れた。しんに出迎えに行ってもらい、私は真子や佳代と一緒に会議室で準備をしながら二人が上がってくるのを待っていた。


「見直しって言われた時は途方にくれましたけど、あっという間に取り戻せましたよね。よかったー」

 これから本格的にプロジェクトがスタートすることが楽しみなのだろう、佳代は楽しそうに資料を配ったりお茶の準備をしている。真子も穏やかに頷いた。

「立花さんが対応早いしね。チーフもいてくれるし」

「私は今回は補佐だからね。三人で頑張るんだよ」

 私は改めてそのことを周知する。そうだ、私はメイン担当ではない。場合によっては他案件を理由に手を引いてもいいのだ。そう思いつくと、途端に息をするのが楽になった。


「立花さんお越しになりました」

 そのタイミングで、立花を連れた森が会議室にやってきた。私は会社では感じたことが無い種類の緊張を感じつつ、しかししっかりと立花の目を見て挨拶をすることが出来た。

「お忙しいところありがとうございます。どうぞ」

 立花は数秒、私をじっと見ている、ような気がした。そして頷くと案内された席へ着いた。




 今日は佳代が中心になって会議を進めた。さすが資料を作った本人なだけに、隅々までもれなくダブりも無く説明し、立花の質問にも簡潔に答えていた。

 元々頭の回転もよく仕事が出来る子だとは思っていたが、今まで私が見てきた中で一番の出来だ。森と一緒に出来るこのプロジェクトをしっかりとやり遂げたいという意気込みが伝わってくる。


 意気込み。今の私に一番無いものだ。私は羨ましいような眩しいような思いで佳代を見つめる。本来この中の誰よりもそれを持っていなければいけない自分が後輩に引っ張っていってもらっている状況が情けなくてたまらない。


 私がぼんやりしているうちに佳代の説明も立花からの質問、それへの回答も終わったらしい。隣の森が、とん、と書類を整える音で我に返った。立花の明るい声が聞こえてくる。


「こちらの事情で急な変更にご対応いただき感謝いたします。まさかこんなに迅速に進むとは……、さすがブライトですね」


 立花の賛辞に、三人の顔が輝く。直接クライアントから感謝されたり褒められたりする経験は何よりのご褒美だ。私は立花に頭を下げる。


「ありがとうございます。引き続きどうぞよろしくお願いいたします」


 そう言うと立花は立ち上がって私の横まで回ってきた。驚いて反射で立ち上がると、握手を求められた。瞬間、躊躇してしまうが避けることは出来ない。思いの外大きく骨ばった立花の手を握り、握手に応えた。


「こちらこそ。期待しています」


 そう言って再度ぎゅっと力を込められる。何か違う意図を伝えられたような気がして急に怖くなり、慌てて立花の手を離した。


 続けて三人とも次々握手を交わす。あえて一歩下がってそれを見つめていると、佳代と握手をしているはずの立花の目線がこっちへ向いていることに気づいた。

 早くこの場が終わって欲しい。立花の視線が、挙動が、言葉が。すべて私を責めているように思えて身の置き所が無い。他人といる時の居心地の悪さは自分のデフォルトだと思っていたのに、恐らく最近はあまり感じていなかったせいか、辛くて仕方がない。


 無事立花を送り出すと、夕方五時過ぎだった。気が抜けたせいか、フラフラと自分の席に座り込む。はあ、何とかやり過ごせた。もう疲れた。寝不足もあるけど……早く帰りたい。


 誰も見ていないと思って、何度目か分からない盛大なため息をつくと、コト、と音がして目の前にコーヒーが入ったカップが置かれた。顔を上げると佳代だった。

「チーフお疲れ様です。……大丈夫ですか?」

「えと、うん、大丈夫だよ?」

「朝から元気無かったから。もうこんな時間ですけど、もし体調が悪いなら今からでも早退されたら如何ですか?」

 佳代が差し出してくれたカップからは温かな湯気が立ち上る。正直好物のコーヒーを飲む元気も無かったが、佳代の気遣いが涙が出るほど嬉しかった。そっと両手でカップを包んだ。


「心配かけちゃったね、ごめんね。コーヒーありがとう」

 構わない、というように佳代が首を振る。

「あの、もし早退されるならマネージャーには私から」

「うん、ありがとう。でも大丈夫。これ飲んで一息ついたら定時までは頑張るよ」

 そう、後1時間も無い。それくらいは踏ん張りたい。実際、今日の私は全く仕事をしていないようなものだ。その上早退なんてしたら土日は落ち込んでベッドから出られなくなる。


 恐らく無理やりそうしているだろう私の心情に気が付いたのだろう、佳代は、仕方がないというような顔で頷いた。

「チーフって意外と意地っ張りですね。じゃあ、せめて休憩室に行ってください。ここに居たら休めないですよ?」

 そう言うと、ほらほら、と言うように私を急き立てた。私はコーヒーとスマホだけ持って、休憩スペースへ移動した。




 休憩スペースから外を見ると、もう真っ暗になっている。細い月が星の間に辛うじて引っかかっているように見えて、その頼りなさが今の自分のように見えた。


 どうしたらいい、と自分に問いかけながら、自分がどうありたいかだけは分かっていた。

 今までどおりがいい。何一つ変わりたくない。変えたくない。

 何かが変われば、編みこまれた糸がほどけるようにバラバラになって形を変えてしまうようで怖い。変わった先に、自分の平穏はない。


 ぼーっと夜景を眺めながらコーヒーを啜っていると、定時終了のチャイムが聞こえた。なんと30分以上もぼんやりしていたらしい。結果としてサボってしまった後ろめたさと、時間の経過も忘れるほどぼーっと出来たことの気持ちよさを抱えたまま、私はオフィスへ戻って行った。

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