嘘を育む
メトシミウム
嘘を育む
それは嘘と呼ぶにはあまりにも些細な一言だった。
「運動部でしょ?」
「あ、うん」
僕は彼女に嘘をついた。運動部だなんて出鱈目だ。ちょっと走っただけですぐに息が切れてしまうし、駅から学校までの坂道を登るのさえ億劫に感じる、どこにでもいる普通の帰宅部だ。
彼女とは学校の裏庭で出会った。その日、僕は気まぐれで朝早く学校に来ていたのだけど、運悪く校庭のスプリンクラーの直撃を受け、制服がびしょ濡れになってしまった。制服を乾かす間、僕は体操着に着替えて校内を散歩した。
気まぐれで朝早く学校に来るのも、校内を適当にぶらぶら歩くのも、普段の僕だったら絶対にやらない。ただその日は、何かが違っていた。自分でもよくわからない直感に導かれて裏庭に出ると、そこに彼女はいた。
「あ、おはよう」
思わず声が出ていた。知らない女子だった。名前も学年もわからない女の子に、なぜか僕は話しかけていた。
彼女は声を出さずに軽く頭を下げた。肩まで伸びた黒い髪が揺れる。
「朝連?」
「え?」
「運動部でしょ?」
「あ、うん」
彼女に会うために、僕は毎朝裏庭へ行くようになった。
彼女は植物に詳しかった。園芸部員で、毎朝植物の世話をしているのだと言った。
「コスモスって日本語だと秋の桜って書くから、十月とかに咲くイメージがあるでしょ? でもこのコスモスは早生品種だから、六月には咲くんだよ」
「へー」
首にかけたタオルで額を拭きながら、熱心に彼女の話を聞く。もちろん汗なんかかいていないし、かく予定もないのだけれど、僕は朝連に来た運動部員を演じることに必死だった。少しでも運動部員らしさを出すために、と母親に買ってもらったスポーツウェアも、着てみると案外似合っている気がした。
「ねぇ、一緒に種を植えようよ」
「種って? 何の植物?」
「秘密。育ってからのお楽しみ」
僕は彼女と一緒に種を植えた。育て方を教わり、二人で毎朝花壇で世話をするようになった。
「なかなか芽が出ないね」
「これは時間がかかるやつだから」
僕は次第に植物について詳しくなり、やがて嘘をつくのもうまくなった。
「じゃ、朝連の続きがあるから」
別れるときはいつもこの台詞だった。彼女との時間は、毎朝わずか五分だけだったけれど、一日のうちでもっとも充実した時間がそこにはあった。
ある日、彼女がこんなことを言った。
「言葉の由来って知ってる?」
「言葉の由来?」
「うん。言葉が言葉という言葉になった由来」
ややこしいな、と思ったが顔には出さない。
「えーと、確か、物事の枝葉しか表せないからだっけ?」
国語の授業で聞いた情報をそのまま話すと、彼女は頷いて続けた。
「うん。言葉は所詮言葉でしかなくて、物事の本質を表すことはできない。それを植物になぞらえて、よく説明されるんだよね。大事なのは幹であって枝葉ではない、とか言ってさ」
でも、それって植物を舐めてるんだよね、と彼女は黒い瞳で僕を見つめた。木の幹を実際に舐めたら苦そうだな、と僕は想像する。
「どういうこと?」
「挿し木って知ってる?」
「まあ、名前くらいは」
記憶が確かなら、種ではなく枝から植物を育てる方法だったはずだ。それ以上のことは知らないけど。
「あれってね、実は葉っぱでもできるんだ。葉挿し、って言うんだけど、うまくやると葉っぱ一枚から植物の本体を再生できるんだって」
「へー」
植物はすべての細胞が、根にも、葉にも、幹にもなれるのだ、と彼女は誇らしげに胸を張った。
「動物には出来ない芸当でしょ?」
その言葉に、僕は自分の腕を切断する光景を想像した。
腕を切って地面に突き刺す。水をやり、日が照ってくると、切断面から僕の本体が再生して、地球上には僕が二人になる。
「だからね、言葉が物事の本質を表せないっていうのは間違ってると思う」
地面を掘り起こして、新しい僕を収穫する。
「葉っぱは植物の本体を再生できる。葉っぱは植物の本質をうちに秘めているんだよ。だから――」
新しい僕は、古い僕とは違って勇気のある男だろうか。
「言葉もきっと同じ。言葉は本質になり得る。私はそう信じてる」
新しい僕は、彼女に名前を聞くことができるだろうか。
実を言えば、彼女が本質という言葉を口にしたとき、僕は少し居心地の悪い思いをしていた。
僕は彼女のことを何も知らない。彼女の本質を何も知らない。名前も、学年も、趣味も、何ひとつとして知らなかった。
名前を聞きたい衝動がなかったわけではない。むしろ、彼女への想いは日を追うごとに募っていった。けれど、自分のついた嘘がそれを阻んだ。
僕は彼女に名前を聞くわけにはいかなかった。だってそうだろう? 仮に彼女に名前を聞いたとして、逆に僕の名前を聞かれたらなんて答えればいいんだ? 素直に教える? そんなの駄目だ。駄目に決まってる。名前を教えたら次は学年を聞かれるかもしれない。そうやって質問を繰り返していったら、いずれは――
答えの出ない問いを抱えたまま、ただ時間だけが過ぎていった。
朝早く起きるのにも慣れた頃、僕たちの関係はあっけなく終わった。
その日、いつものように僕は教室で運動着に着替えて、裏庭へと向かった。軽い足取りで、裏庭へと続く校舎の角を曲がると、彼女の他に見慣れぬ人影があった。
「ありがとう」
一人の男子生徒が彼女にお礼を言っていた。日に焼けた黒い顔に、手首まで伸ばしたアンダーシャツ。左手にはグローブをはめている。よく見なくても野球部員とわかる出で立ちだ。
野球部員は手にボールを握っていた。察するに、打球が裏庭まで飛んで、それを拾いに来た、といったところだろうか。
「あ」
野球部員と目があった瞬間、僕の口から間抜けな声が漏れた。
息継ぎをする間もなく、僕は彼に話しかけられていた。
「おう、おはよう。どうしたんだ、こんな朝早く。帰宅部にも朝連があるのか?」
満塁ホームランのようなすがすがしい笑顔に対して、僕は引きつった笑顔で「おはよう」とだけ返した。
野球部員は知り合いだった。同じクラスの隣の席だ。彼は僕のような帰宅部にも分け隔てなく接してくれる、根の優しい男だった。部活に入っていない僕にとっては、彼のように時折冗談を言い合える関係はとてもありがたかった。
だがしかし、よりにもよって、なぜこのタイミングで――
せめて、もう少し早く気がついていれば――
僕は自分を責めた。
後悔先に立たず。
覆水盆に返らず。
後の祭り。
慣用句が頭の中を巡る。そういえば、慣用句とことわざの境界線はどこにあるのだろうか。格言とはどう違うのか? 格言と金言の違いは? 金言があるなら銀言や銅言もあるのか?
現実逃避の波にさらわれて、僕は溺れ死にしそうだった。
「まあ、帰宅部とか運動部とか関係ないか。運動するのは誰だって気持ちがいいもんな」
爽やかに走り去る彼の足音を聞いて、僕の意識はようやく裏庭に戻ってきた。
裏庭には彼女がいた。僕と彼女だけがいた。
六月に入り、汗ばむ日も増えてきた。そんな季節だった。
「帰宅部なの?」
彼女の声が自分の頭越しに聞こえる。僕は怖くて彼女の目を見ることができなかったので、ずっと下を向いていた。
「ごめん」
やっとの思いで絞り出した声は、地面に吸い込まれて消えた。
息を深く吸い込んで顔を上げる。
「ずっと言わなきゃって思ってたんだ。だけど、君と話すのが楽しくて、言い出せなかった。騙してて、ごめん」
運動部でもないのに、毎朝運動着に着替えて運動部の振りをする男。ちょっとしたホラーだ。もう二度と口を聞いてくれないかもしれない。でも、こうなった以上、正直に謝る他ないだろう。たとえどんな結果になったとしても。
風が僕たちの間を通り抜け、グラウンドからは野球部の声が聞こえる。
彼女は何も言わない。僕たちはただずっと見つめあっていた。
沈黙に耐え切れず、僕は口を開く。
「ごめん。もうここには来ないよ。本当に悪かったと思ってる。さよなら」
本当は、また明日、と言いたかった。また明日も彼女と笑いながら話がしたかった。けれど、口から自然と出てきた言葉は、さよなら、だった。情けない。
「ねぇ。さっきから一方的に謝ってるけど、私の気持ちは聞いてくれないの?」
「え?」
彼女の顔には薄っすらと笑みが浮かんでいた。なるほど。ずっと騙されていたわけだから、愚痴のひとつでも言いたいのだろう。何の取り柄もない哀れな帰宅部を馬鹿にして、蔑み、嘲笑して――いるような笑顔には見えない。頬を赤らめ、心なしか好意的な眼差しを向けているようにも見える。誰に? 僕に? なぜ?
「私もね、楽しかったよ。毎朝、君と話すの」
夢かと思った。けれど頬はつねらない。心臓が早鐘を打ち、額から汗が出てくる。
「私たちはね、本質的に似てるんだと思う」
「に、似てるかな。似てないと思うけど」
僕みたいなダメ男と君が似ているわけがない、と詳しく説明をしようとしたところで、彼女の言葉がそれを遮った。
「……どうする?」
「え?」
「……って言ったらどうする?」
「ごめん、聞こえない」
彼女は伏目がちに、それでいてはっきりと聞こえる声で言った。
「この学校に、実は園芸部がない、って言ったらどうする?」
そこから先のことは、緊張のせいもあってあまりよく覚えていない。「この学校には、気になる男子に会うために園芸部の振りをして、毎朝花壇に来る女子がいる」というような意味の言葉を彼女は言っていたかもしれない。
なるほど。もしそんな子がいるなら、確かに僕とよく似ている。
初夏の陽ざしを受けて、花壇には個性豊かな植物が茂る。
早咲きのコスモスの隣で、名前の知らない小さな植物の芽が、風に揺れていた。
嘘を育む メトシミウム @metosimiumu
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