七月三十二日に逢いましょう

黒崎ろく

第1話 淡き鈴の音

 ―ちりん。

 ―あそぼう?


 七月の終わりに近づくと、毎年、同じ夢を見る。小さな男の子が、こちらに手を伸ばす姿と、小さな鈴の音。


 ―ちりん。

 ―こっち。


 呼ばれている。姿ははっきりと見えない。石を投げ込んだ水面のように視界は波打つ。小さな手を掴もうと、必死にもがく。体が重たい。水に足を取られて沈む。彼が遠くなる。視界が暗くなる。


 ―ゆいちゃん。


 私は、いつも、呼ばれている。ノイズがかったその声は、知っている。でも、でも。

 私を呼ぶあなたはだあれ?


「お客さん、駅、着きましたよ。降りてください」

「・・・・・・すみません。すぐ降ります」


 東京から地元へと、深夜バスで揺られているうちに随分と深く眠ってしまっていたらしい。他の乗客はすっかり捌けたようだ。荷物入れから出されたキャリーバッグがポツンと持ち主を待っている。


「・・・・・・んー!」


 凝り固まった体をほぐすように伸びをして、朝日を浴びる。思い込みかもしれないが、肺を膨らませた空気は、東京より少し綺麗な気がする。視界にも心做しか緑が多く映ることだし。ガラガラと四輪を転がしてターミナル駅に入る。実家近くの最寄り駅へは、まだローカル線に乗らなければならない。

 ここを出る頃はまだ切符を使っていたなと、料金表を見れば、記憶にあるより十円ほど上がった運賃が表示されていた。すっかり電子マネーに慣れた右手が無意識にカードをタッチして改札が開く。


 東京の電車内では必ず耳に押し込んでいるイヤホンを外してみた。各駅停車しながらレールを滑る音と細く開いた窓を風が鳴らす音だけが響く。

 窓の外には、後方へ走ってゆく懐かしい景色。青々とした畑。通っていた小学校。この辺には林が・・・・・・無くなったのか。

 朝の下り線は静かだ。


 ―ちりん。


 耳の奥で鈴が鳴る。

 まただ。一体なんの音なんだろう。

 この音は、私の胸を締め付ける。この暑さが、この空の青と白が、音が、空気が、匂いが。熱の上がりきらない七月の終わりの全てが、私の脳みそに、心に、体に、思い出せ、思い出せと訴えかけてくる。その原因を、私はいつも忘れている。記録にも残せない、周りの誰にも聞こえない鈴の音だけが、私に「私は忘れている」ということを意識させる。


 数年ぶりに使う鍵を取り出すと、キーホルダーについている鈴が揺れた。違う。この音じゃない。もっと澄んだような―――ドアに鍵を差す。かしょん、と軽い感触。


「ただいまー」

「おかえり、結子! 駅着いたら連絡してって言ったじゃない!もう、重かったでしょ。よく帰ってきたねぇ、おかえり」

「お母さん、ごめんね、電源切れちゃって充電バッテリーも使い切っちゃってさ」


 大学最後の夏休み。就職が決まり、地元でゆっくりすることもしばらく出来ないだろうなと思い、実家に帰ってきた。帰ってくるのが面倒で、バイトが、課題が、研究が、と理由をつけて正月にも帰らないような数年を過ごしていた。正直、悪かったと思っている。家族と不仲な訳ではない。私が、東京に憧れただけ。


 東京に行けば、変われると思っていた。東京という町が変えてくれると思っていた。キラキラしたものが沢山あるんだと思っていた。そういうものに触れていれば、自分も輝けるんだと思っていた。


「着いたって、おじちゃんにちゃんと連絡しなよ! さっきからずっと電話鳴ってるんだからね!」

「するする」


 母が部屋に運んでおいてくれた布団を広げて、倒れ込む。帰ってこないつもりだったから、空っぽにしてしまった自分の部屋。置いていったテーブルだけが迎えてくれる。


 ―ちりん。


 鈴の音に誘われて、まどろみに、堕ちる。


 ―ゆいちゃん?

 ―いつまでたっても、泣き虫だなぁ。


 そんな昔の呼び方で、私を呼ぶあなたは、誰なんだよ。

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