第2話 二度目
考古学に興味を持ったきっかけといえば、過去に祖父に連れていってもらった美術館だった気がする。現代は絵や文字、インターネットを用いて歴史を残すことができるが、古い時代にはそれがない。残そうとも思わなかったのかもしれない。
土器の底に焼け跡が見つかれば火を使用していたことになるし、建造物でも当時の人々の知恵が詰まった辞書のようなものだ。
目に入るものを文字にする。単純な作業でも、広い知識と想像力が必要になる。何より没頭できる。家族のことを考えないで済む。僕はこれがとても好きだった。
考古学を専攻すると言ったとき、母は反対した。大学に入ってからもそれが将来、どんな役に立つのかとひどく心配していた。今はぴたりと止んだ。寂しいわけでもないが、空いた穴を埋めるために、研究に没頭し続けた。
「藤裔君、ちょっといいか?」
「はい、教授」
呼び出されたかと思ったら、ソファーに座るよう指示される。
湯気の立つコーヒーは、教授が入れてくれたものだ。豆はキリマンジャロと……あと何か混ざっている。説明をしてくれても、僕にはよく分からない。
なぜだかこの前飲んだ、ココアを思い出した。
「この前、君が発掘してくれた巻物の一部だが、当時使われていなかったインクが使用されていたんだ」
「まだ詳細ははっきりしないんですか?」
「ああ。しばらく時間がかかりそうだ。私はしばらく、北海道に行くことになった。別の研究グループの教授が、似た巻物を持っているらしいんだよ」
「原型をってことですか。興味深いですね」
「だろう?」
佐藤教授は、子供みたいな笑顔を見せる。教授を目指すほど変わり者はいないというが、佐藤教授は特に奇特な人だ。僕もこんな変わり者を目指しているあたり、変わり者なのかもしれない。
「それは行くべきですね」
「ああ。新しく、私の研究グループに加わる准教授がいてな、私がいない間はその人が指揮をとってくれることになっている。三十歳で准教授になった」
「三十歳ってお若いですね」
准教授になるのすら狭き門で、運だけではなれない世界だ。実力が伴い、運も発揮される。宝くじに当たるよりも難しい。
「でも……なぜ僕にだけこのような話を?」
「君の将来は、どこかの研究グループに入って考古学をもっと勉強知りたいと言ってくれたね。君の持つ知識はとても深くて広い。無駄にしてほしくないんだ。ぜひ、諏訪教授と共に中心になって次の発掘を取りかかってほしい」
諏訪教授。ココアと諏訪繋がりで例の出来事を思い出し、変な顔になる前にコーヒーを飲んでごまかした。
彼はちゃんと無事に帰宅しただろうか。ココアを注文してくれた後、飲み終わるまで一切の会話がなく、飲み終わった後に美味しかったですね、と声をかければ、じっと僕を見るだけで何も言わない。見つめ返せば恥ずかしそうに顔を背けるし、手を繋げば汗まみれになるし、タオルで拭けば怯えるだけ。
──何をしに来たのですか?
何万円もかけて六時までそんな調子だったので、つい禁断の一言を放ってしまった。ミサイル並みの威力を誇ると思ったのに、
──また来てもいいですか?
意味が分からない。
──いつでもお待ちしております。
誰が聞いても定期文でしかないお決まり文句を使っただけだったのに、心底嬉しかったのか最後が一番の笑顔を見せてくれた。意味が分からない。
店長にどんなお客さんだったかと聞かれたが、意味が分からない人だったとしか答えられなかった。
佐藤教授に、ぜひとも発掘に加えてほしいと告げると、彼もほっとした笑みを見せた。
今日もアルバイトの日だ。一度家に戻って軽く睡眠を取る。
シャワーを浴びて準備をしようとしたところ、疲れきった母が呼び止める。連日、泣き叫ぶ赤子の面倒を見ているのだ。疲労も溜まる。
「今日もバイトなの?」
「お金貯めたいんだ。一人暮らししたいから」
「…………そっか」
反対もしない。寂しいとも言わない。これが僕の家族からの価値観。道端に転がっている石とおんなじ。赤子は宝石。目に入るものと入らぬもの。
「行ってきます」
「気をつけてね」
言い終わるかどうかのところで、また赤ん坊が泣いた。母の興味は僕から赤ん坊へとすぐに移る。
僕は気づかないふりをして、家を後にした。
アルバイト先へ行くと、店長が困惑した顔でパソコンとにらめっこをしている。
「おはようございます。どうかしましたか?」
「おはよう。例のお客さんだけど、またナズナを買いたいって来てるんだ。いいかな」
「えーと……確か、」
今日は一時間だけ、別のお客さんが入っていたはずだ。
「僕でないとダメなんですか?」
「君が良いそうだよ。どうする? お断りする?」
「一時間後でもいいと仰るなら、お通しして下さい」
「オーケー。荒井様は桜の間、諏訪様は薺の間ね」
荒井さんは華やかな浴衣を選んだ。牡丹や百合など、数種類の花が立派に咲いた浴衣だ。
いつも通りのご挨拶で深々と頭を下げれば、強く腕を引かれた。
「いたっ……」
「ああ……ごめんね……ごめんね……ナズナ君……、会いたかった……」
鼻息が首に当たり、生ぬるい風が当たる。
「旦那様……首元が苦しいです」
「ナズナ……ずっと来られなくてごめんね? 寂しくなかった?」
「寂しゅうございました」
「早く、早くっ……布団にいこ?」
「はい」
荒井さんは一か月に一度か二度会いに来てくれる方だ。彼は難しい接客も愛の駆け引きも必要ない。布団で甘えるだけ甘え、帰っていく。それだけだ。
頭を胸に抱いて、背中をぽんぽんすればいい。
大きないびきを立て始め、一時間後にそっと起こす。
帰りたくないとごねるが、今日は延長はできない。
「ナズナ、また来てもいい? あと何回来たらちゅーしてもいい?」
「ちゅーは何回来てもダメです」
「えーっ! じゃあ連絡先を教えてよ」
「それもダメです」
クマみたいな大きな身体を揺らして、フロアで僕の手を掴んで離さない。目尻で店長の顔が引きつっているのが見える。
出入り口の扉が開き、新しいお客さんが入ってきて邪魔にならないよう荒井さんの腰に手を当てて誘導すると、向かいの人と目が合った。
「……………………」
息も止めて固まっているのは、僕を指名してくれたお客さん。相変わらず厚いレンズの眼鏡をかけ、スーツを着用している。
「では旦那様、この辺で失礼しますね」
「つれないなあ……そういうところも好きだけどね」
「ありがとうございます。お気をつけて」
見えなくなるまで見送ると、いまだに固まっている彼に軽く頭を下げた。
急いで控え室に戻ると、新しい浴衣に着替えを済ませる。乱れた髪を整え、薺の間へ早歩きで急いだ。
急ぎ気味にノックをして開けると、またもや驚き顔の諏訪さんと視線が交わった。
「申し訳ございません。遅刻してしまいました」
「構いません。急いで来てくれたんですか? 嬉しいです」
前回よりも慣れたのか、挙動不審ではなくなっている。
「先ほどは失礼致しました。お見苦しいところを」
「いえ…………」
不審者じみた動きはなくなったが、なんだか小さくなった気がする。
正座のまま、大きな上背を丸め込んだ。
「……僕の他にもいますよね。ごめんなさい。ちょっとだけ、嫉妬してしまいました」
「嫉妬、していたのですか」
「はい。しちゃいました」
「なんだか、可愛い方ですね」
そっと太股に手を置くと、諏訪さんは聞いたことのない声を出す。無料動画で見たヤギの鳴き声に似ていた。
「ご、ごめんなさい……」
「ゆっくり慣れて下さったら嬉しいです」
「あの……今日なんですけど……お茶しませんか?」
「はい。ぜひ」
彼にはそっと寄り添うのがいい。無理に近づこうとすると、腰が引けて逃げてしまう。
お品書きを見る彼の指には爪の間に土が入っていた。
「お仕事頑張っていらっしゃるんですね」
爪を撫で、上から重ねて握ってみると、お品書きを落としそうになった。
「うわあ……かっ」
「か?」
「か…………かわいい」
「最大級の褒め言葉をありがとうございます。そのように真っ赤にならないで下さい。三食団子のセットでよろしいですか?」
「はい……」
鈴を鳴らしてお運びさんに注文をし、待っている間も諏訪さんは落ち着かない。
「前回……すみませんでした。あんな態度で」
「いいえ。楽しんで頂けましたか?」
「それはもちろんです。また会いたくて……来ちゃいました」
「私もお会いできて嬉しゅうございますよ」
花が咲いたような笑いというのは、こういう笑顔を言うのかもしれない。笑った彼は、くしゃっとなって少し可愛い。
お運びさんからお茶のセットを受け取ると、急須に茶葉とお湯を入れて少し待つ。
「わざわざ入れて下さるんですね」
「はい。少々温めでもよろしいですか? 煎茶は温度を下げた方が香りが立つんです」
「私の祖母も同じことを言っていました。よく祖母の家で入れてもらったんですよ。懐かしいなあ」
彼と会話が盛り上がりそうなワードが出た。キーワードは『祖母』。
「おばあさまと仲がよろしいのですね」
「家から追い出されたときも、祖母だけは特別扱いしないでいてくれましたから。優しい人でした」
でした。過去形。根の先を見ようと深く土を掘ることは禁止。
「昔から男性が好きだったんです。勘当されてしまいました」
笑えるような話題でもないのに、諏訪さんは諦めの色が混じった声で微笑んだ。
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