幽閉された美しきナズナ

不来方しい

第1話 小さな部屋の片隅で

 世界は大きいというが、誰にとっての世界が大きくて、惑星は碧く見えるのか。

 少なくとも、僕にとって目の前に広がるのは光が閉ざし狭すぎる世界だった。

 暗くて灰色なのに、プラネタリウムで見た空間とどうしてこうも違うのか。

 長い廊下を歩くと、楽しげに談笑する者や同僚の掠れた声が耳に届く。

 『桜の間』『藤の間』『百合の間』など、襖にプレートが飾られ、僕は一つ一つ数えながら奥へ奥へと進んでいく。

 『薺の間』。読み方は『なずな』。僕の名前と同じで、店長は面白がってこの部屋を僕に与えた。覚えやすくて二つ返事で頷いた。

 膝をつき、失礼します、と声をかけた。律儀に返事をしてくれるのは、慣れているか緊張よりも悦びが勝っているかのどちらかだ。

「旦那様、いつもありがとうございます」

「やあ、ナズナ。一か月ぶりだね」

「はい」

 本日の旦那様は、司馬しば永十郎えいじゅうろう。ここで働くようになってから、随分とご贔屓にして頂いているお客様だ。何度目かのとき、彼は懐から名刺を出し、僕に渡した。某有名なホテルの名前が書かれてあり、いつも高級なスーツや高そうな腕時計をしている理由が分かった。

 指をつき、深々と頭を下げると、彼はご機嫌よくおいでと手招きする。

「あっ…………」

「金木犀の香水? 季節はずれの香りだね」

「お気に召しませんか?」

「いいや……すごく良いよ。どこにつけたの? 」

「首に…………」

 司馬さんは胸元を弄り、丸出しの肩に口をつける。くすぐったくても我慢しなくてはならない。こういう仕事だ。

「旦那様……これ以上は」

「ああ……そうだね」

 すんなりと身体を解放してくれ、少し距離と取ると、身なりを整えた。

「お飲物は召し上がりますか?」

「ああ、頂こうか」

 鈴を鳴らせば、お運びさんと呼ばれる人がやってきて注文を聞きにくる。雰囲気だけではなく、料理もしっかりしていて、大抵の人は頼んでくれる。

「もう、私に飽きてしまわれたのかと思いました」

「一か月も顔を見せなかったから?」

 司馬さんは笑っている。僕を胸に抱き寄せたまま、頼んだ料理を口にする。

「安心して。ここずっとナズナ以外に会いにきたことはないよ」

「嬉しゅうございます。お酒を」

 膝の上で注ぎづらいが『旦那様』の望まれたことは叶えなければならない。

「新しい子が入ったっていうから、どんな子が来たのかと興味本位で選んでみたら、まさかこんなに可愛くて愛想のない子が来るとは思わなかったよ」

「はい、いちから旦那様に育てて頂きました」

 司馬さんはホテル経営を成功させた実績を持つためか、プライドが高い傾向にある。自尊心をくすぐれば、満足してくれるタイプだ。

「こういう儚げな顔を見ているとほしくてたまらなくなる」

「今宵は旦那様のものですよ」

「今宵は……か。そうだな。飲んだら添い寝してくれるかい?」

「かしこまりました。旦那様」

 これ以上無理だと分かると、彼は途端に引いてくれる。時折困ったことは言うが、反応を見ながらだというのは理解している。彼は大人だ。

 六時になれば時間を知らせる鈴がなり、お見送りだと知らせてくれる。

「旦那様、また会いにきて下さいね」

「ああ、必ず来るよ」

 六時半には別れを告げ、惜しいとばかりに手を離さずにいると、司馬さんは何度も可愛いと口にする。きっと次も来てくれると確信を持った。

「お疲れ様です」

「はいよ、お疲れ」

 控え室には店長がいて、来週のシフトを確認している。

「悪いんだけど、来週の金曜日出られるかな?」

「大丈夫です」

「ありがとう。助かる。急にひとり休んじゃってね。サクラは身体が弱いから」

 サクラと呼ばれる男性も働いているが、間違いなく本名ではない。本名をそのまま店で源氏名として使っているのはきっと僕だけだ。

 挨拶をして家に帰る頃には、すでに太陽が上がっている。

「ただいま帰りました」

 自分の家であるはずなのに、何度来たって一向に慣れる気配がない。

 一等領地に建てられた大きな屋敷は、一階建ての和風造りとなっている。庭には鹿威しまであり、飲めそうなくらい透明な池に錦鯉まで泳いでいる。初めてここに来たときは、何時間も音を聞きながらずっと泳ぐ錦鯉たちを見つめていた。

「坊ちゃん、お帰りなさい。朝食はできておりますよ」

「ありがとうございます」

 優しい仮面を被った家政婦の船木さんは、仮面を取っても優しい人。わざわざ僕も出迎えてくれ、美味しい朝食を用意してくれている。

 今日は洋食だ。カリカリのベーコンやオニオンスープ、スクランブルエッグ、焼きたてのパン。どれも美味しい。

 ベリーのジャムをつけて味わっていると、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。すぐに母親のあやす声も聞こえてきて、僕は素知らぬ顔で残りのスープを飲み干した。

「美味しかったです」

「お粗末様でした。坊ちゃんは洋食がお好みですか?」

「いえ……どちらも好きです」

 この藤裔ふじすえ家に来てから、ほぼ和食が多い。九割くらいは日本食ばかりだ。日本人の血しか通っていないはずなのに、醤油が嫌になるときがある。でもそんなわがままは言えない。言える立場にない。

 自室に戻るとき、母は赤ちゃん言葉で赤子をあやしている。襖を開ければ母がいるが、僕は素通りして自室に戻った。

 ベッドに伏せっても、なかなか眠れなかった。子供の声がどうしても耳障りで、僕は柔らかな布団をおもいっきり握り潰した。タイミングがぴったり合い、赤ん坊の声は止んだ。

 願いは届いた。少なくとも神様は、少しは僕の味方をしてくれていると暗示をかけ、強く目を閉じた。




 僕のしているアルバイトは少し珍しい。ホストクラブでもないし、昔の遊郭でもない。客人相手に『自由恋愛』を売る場所だ。

 司馬さんのように新婚のようなやり取りを好む人もいるし、一緒に添い寝を求める人もいる。夜通し買ってくれる人や、数時間の癒しを求めに来てくれる人もいる。ただ、性的な行為は禁止されている。性を求めてくる人は、いくら利用が多い人でも出入り禁止となってしまう。あくまで癒しを提供する空間であるからだ。

 僕らは売り上げのために、食事やお酒などを注文してもらうよう誘導する。経営者である彼は、その辺りの事情を分かっていて高いものを注文してくれる。

「今日は初めてのお客さんだよ」

「初めてを僕でいいんですか? あんまり会話は盛り上がらなそうですけど……」

「人慣れしていなくて、あまりぐいぐい来られるタイプはどうしていいか分からないらしい。いつも通り、二十二時から六時までね 」

「はい」

 人慣れしていない人ほど豹変する人が多い。気をつけて。これはアルバイトを初めてから店長に言われた言葉だ。短めに返事はしたが、実際は違う。裏の顔なんて誰でも持っていて、おとなしそうな人ほどギャップが生まれるだけだ。豹変するきっかけは人それぞれにせよ、誰しも起こり得る。僕が知る中で、裏の顔がないのは家政婦の船木さんくらいだ。

 何枚もある中から、今日は藤の花の浴衣を選んだ。落ち着いていて大人っぽい。けっこうお気に入りだ。

 廊下に掛けられている時計の長針が十二を指したとき、膝をついて声をかける。が、返事がない。

 襖を開け、伏せた目を開くと、驚いた顔をした男性と目が合った。

「……………………」

「……………………」

 底が見えないほど厚いレンズの眼鏡と、ぼさぼさの髪。無精髭。風貌にこだわりがありませんと、すでに証明していた。

「………あ、あの…………」

「申し遅れました、ナズナと申します。本日はお世話をさせて頂きます」

「こっこちらこそ……、その、初めてで……。諏訪すわ京助きょうすけと申します」

 名乗るのか。名乗ってしまった。本名を言わないのは暗黙の了解なのに。一応店長から聞いていても、知らないふりをして接するのが掟だ。相手が呼んでほしいと言われたときだけ、名前を聞いて呼ぶ。

「あっすみません……」

「いえ、名前を仰るのはあなたで二人目です」

「ふ、ふたりめ……そうですか」

 お互いに正座をしたままだったので、姿勢を楽にして下さいと告げるが、今度は膝を抱えて座っている。苦しくないのだろうか。

「朝の六時までですよね?」

「はい……ご予定がありましたか?」

「私は特にございませんが……初めてでフルタイムをご希望される方は少ないのです。だいたいは一時間様子見をし、増やして下さるパターンが多いので」

「は、はあ……お得に惹かれちゃいました」

「確かに。フルタイムの方がいくらか安くなりますものね。お側に寄ってもよろしいですか?」

「ええ……来るの?」

「お嫌でしたか」

「そっそんなんじゃ……恥ずかしくって……緊張しちゃって」

「スーツを脱いで楽にして下さい。あとネクタイも」

 これでは母親になった気分だ。

 スーツをハンガーにかけ、ネクタイを解く。きっちり上まで留めたボタンを外すと、なぜか顔を背けられた。

「……私ではなく、他の者に代わりましょうか?」

「違いますっ……緊張しすぎてどうしたらいいのか分からないんてす」

「お酒などはいかがでしょう?」

「お酒……ですか」

 お品書きを渡すが、あまり気乗りする様子はない。

「苦手ですか?」

「あまり飲まないんです」

「お好きなものは、ございますか?」

「んー……甘いものとか……」

「それなら、私と好みが合いそうですね」

 隣に移動し、背中をとんとん触れてみる。余計に緊張してしまったのか、背筋が伸びてしまった。

「チョコレートはお好きですか?」

「はい……好きです」

「こちらならば、比較的安価になりますよ」

 店としてあまりよくはなかったが、一番安いひと口サイズのチョコレートの菓子を選んだ。隣に載っている棒状の菓子は値段が高い。食べさせてほしいだの端から一緒に食べたいだの言う客人がいるので、値段が上乗せしている。

「ココアは……好きですか?」

「はい。好きですよ」

「の、飲みませんか……?」

「私の分も注文して下さるのですね。ありがとうございます」

 二度目の来店となるのか分からないが、諏訪京助はココアと甘いものが好きと、インプットしておいた。

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