第十九話 年の瀬

 年内の外来診療が今日で最後ということもあって、待合室は朝から、診察に来た人やお薬を出してもらいに来た人達で、にぎやかなことになっていた。


 それとは逆に、病棟は年末年始を自宅ですごそうと外泊をしている患者さんが増えて、ベッドが空いている部屋が目立っている。症状の安定している患者さんの中には、家族とお正月をすごすために、一時帰宅している人も少なくないのだ。


 私の前で、ベッドでチョコンと座っている可愛いお婆ちゃんも、外泊するその一人。ここしばらくは容体も安定していたので御家族と話し合った結果、川北かわきた先生が外泊の許可を出したのだ。今日は御家族のどなたかがお迎えが来るらしい。お昼の回診で病室を訪問すると、すでに寝間着姿ではなく、きちんと洋服に着替えていて髪も綺麗にとかし、薄くお化粧までしていた。


「はい、今年の回診はこれで終わりです。今日は、お子さん達がお迎えに来られるんでしたっけ?」

「孫達も学校が休みになったので、皆で迎えに来るって言っていたよ。タクシーで帰るから、わざわざ皆で来ることもないよって、言ったんだけどねえ」


 やれやれと言いながらも、とても嬉しそうだ。


「お婆ちゃんがお家に帰ってきてくれるのが、嬉しいんですよ。やっぱり家族そろって、新年を迎えたいですからね」

「家に帰ったら、こっちに戻ってくるのがイヤになるかもしれないねえ」

「あら、そんなことになったら、私達が寂しいじゃありませんか」

「先生にはボールペンのきみがいるから、寂しくなんかないでしょうが。また新しいのがやって来たのかね」


 そう言ってお婆ちゃんは、白衣のポケットにさし込まれたボールペンを指さした。そう、今日のボールペンはイワトビペンギン。今朝、アパートを出る時に、南山みなみさんが手渡してくれたものだ。まさか本当に、カバンの中に入っているとは思わなかった。


「そうなんですよ。そろそろ置く場所がなくて困っています」

「昔は手紙を送ったものだけど、時代は変わったねえ」

「いえいえ、これは今時でも普通じゃないですからね? ちょっとおかしなきっかけで始まっちゃったやり取りが、いまだに続いているだけですから」

「いつまで続くのかね?」

「え? いや、どうなんでしょう。いつまでなのかな……ネタが切れるまで?」

「おやまあ」


 私の言葉に、お婆ちゃんは愉快そうに「今時の若い子は面白いねえ」と笑った。お言葉ですが今時の子と言うより、南山さんだけが特殊なんだと思うのですよ?


 それからしばらくして、お婆ちゃんの御家族が押し寄せてきた。同居していた娘さん御夫妻や他のお子さん達のお子さん、つまり孫さん達が大勢。思っていた以上に団体様御一行でちょっとびっくりだ。


「じゃあ先生、良いお年を」


 病室を出たところで、私と顔を合わせたお婆ちゃんが、ニッコリと嬉しそうに笑って会釈をした。


川久保かわくぼさんも。無理をしない程度に、楽しくすごしてくださいね」

「ありがとうございます。みやげ話をたくさん仕入れて、戻ってくるからね」

「はい、楽しみにしています」


 誰がお婆ちゃんの車椅子を押すかで一悶着ひともんちゃくあったものの、ジャンケンでその権利を勝ち取った高校生君が、得意げに車椅子を押して部屋を出ていく。そしてそれにゾロゾロとついて行く御家族の皆さん。ちょっとした大名行列だ。こんなふうにお見舞いやお迎えに来てくれる家族が、どの患者さんにもいれば良いんだけれど難しい問題だ。


「さてと」


 昼間の回診が全て終わって一段落。外泊している人がそこそこいたので、いつもより早く終わってしまった。一息ついてのびをしていたら、大きなアクビが飛び出した。


「まだ明るいのに、そんな大きなアクビをしちゃって。もしかして寝不足ですか?」


 慌てて口を押えて振り返ると、看護師の臼井うすいさんがニヤニヤしながら立っていた。


「びっくりした、患者さんに見られたかと思った」

「そんな派手にアクビをしていたら、事務長に叱られちゃいますよ?」

「事務長も今日は部屋から出てこないんじゃないかなあ。今日は東出ひがしで先生もお休みだし」

「それは言えてるかも」


 ただ、あの事務長は神出鬼没しんしゅつきぼつで油断はできない。気をつけておくに越したことはなかった。


「それで? 寝不足なんですか?」

「そんなことはありませんよ。ちゃんと睡眠はとりました。頭がボンヤリしていたら、患者さんのためにもなりませんから」


 すました顔で答えてはみたものの、昨夜に酔っ払って私の元に押し掛けてきた誰かさんのせいで、普段より少しばかり睡眠時間が足りてしないのも事実だ。あの調印式とやらのあと少しは寝ることができたけど、出掛ける前にしなければならない余計なことが増えたせいで、早めに起き出さなきゃいけなかったし。あ、今頃はなにしているんだろ? もうアパートは出たかな? ちゃんと鍵はポストに入れてくれただろうか?


「なんだか北川きたがわ先生、ちょっと見ないうちに随分と……」

「な、なに? 随分と? 太った?! 老けた?!」


 ギョッとして自分の体を見下ろす私に、臼井さんは違いますよと笑いながら手を振った。


「違いますよ、なんて言うか、すごく女性らしくなったなあって」

「そうなの? ん? 待って。っていうことは、今まで女性らしくなかったってこと?」


 それはそれで悲しくない?と複雑な気分になる。そんな私の反応に、臼井さんはなんだか楽しそう。


「いやいや、相変わらず北川先生は北川先生で安心しました。ボールペンさんとお付き合いを始めて、変わってしまったのかなって思ってましたから」

「それってほめてる?」

「はい、ほめています」

「そう? なにか違うような気がするんだけど」

「そんなことありませんよ。北川先生は今も以前も、とっても素敵な女医さんです、はい」


 臼井さんと一緒につめ所に戻ると、そこで他の看護師さんや先生達と合流して、それぞれの患者さん達について報告をしあい情報の共有をする。だけどそれも、患者さんの人数が減っているということで、いつもより短い時間で終わってしまった。このまま容態が急変する人が出なければ、今年の病棟は、比較的穏やかな年越しができるかもしれない。


「ところで北川先生は、年末年始のお休みはいつからなんでしたっけ?」

「一応は明日から一日まで。担当している患者さんも外泊する人が多くてね、川北先生が、それぐらい休んでも大丈夫だろうって」


 もちろん病院に残っている患者さんもいるし、外泊中の患者さんが急に戻ってくる可能性もゼロではない。だから、いつでも連絡がつくようにと言われているけれど。


「良かったじゃないですか。のんびりとお家で年越しができるなんてラッキーですよ。去年の大晦日おおみそかはすごかったらしいですからね。えっと、北川先生のお休みは三十日から、一日まで、と」


 臼井さんは、ホワイトボードの私の名前が書かれているところに、お休みの印を書きながら言った。


「すごかったってなにがあったの?」

「カウントダウン直後に、大トラが運ばれてきたらしいですよ、東出先生が大噴火したって話です。山田やまださん、あの時はあっちに応援に行ったんだっけ?」

「ええ。とにかく大暴れで診察室をメチャクチャにされて大変でしたよ。今年は来ないと良いですね、あの大トラさん」

「うわあ……」

「去年と似たようなことになったら、救命救急の研修医君達は大変なんじゃないかなあ。それを知っている先生達の間では、今年は何事もなく年を越せたら良いねっていうのが、合言葉みたいですよ」

「怖すぎる……」


 大トラも怖いけれど、東出先生の大噴火なんて恐ろしすぎて考えたくない。そんなことを考えつつ、外来の方へ降りた。相変わらず順番待ちの人は多くて、長椅子はほぼ埋まっている状態だった。


「あ、北川先生!」


 長椅子が並んでいる前を通りかかったところで、声をかけられた。誰だろうと声がした方に目を向ければ、以前に御主人が入院していた奥さんだった。


「ああ、お久し振りです。今日は診察ですか?」

「ええ。主人は今、先生のところでてもらています」

「あれからお加減はいかがですか?」

「お陰様で。最初の頃は味が薄いだのもう少し脂っこいものが食べたいだの、毎日のような文句を言ってましたけど今じゃなにも。薄味にも慣れて、これも悪くないな、ですって」


 ウフフと奥さんが楽しそうに笑う。


「それは良かったです。いくら体に良くても、おいしいって感じられなかったら、つらいですものね。きっと、奥様が一生懸命に頑張られたお蔭ですよ」

「今度、入院するようなことになったら何もしませんからねって脅したのも、いたみたいですよ」

「あら怖い」


 そこへ旦那さんが戻ってきた。退院した時よりも、ずっとお元気そうで安心した。


「北川先生、お久し振りです。その節はお世話になりました」

「いえいえ、こちらこそ。顔色がすごく良くなりましたね」

「家内が、鬼軍曹のように生活を管理しているのでね。不健康にはなりたくてもなれませんよ」


 そう言って、楽しそうに笑っている。


「しかも今回は、体脂肪がかなり減りましてね。かなり理想的な体系になったと、先生からもおほめの言葉を頂きました」

「なるほど。以前より男前になられたなって思ったのは、錯覚さっかくでもなんでもなかったんですね。奥様の努力の賜物がこんなところでも」

「おだてないでください。すぐにいい気になっちゃうから」


 そして御夫妻の視線はやはり、ポケットにささっているボールペンに。


「今度、先生と会う時はアヒルかなって期待していたけど、まだまだでしたね」

「コレクションがどんどん増えて困ってます」

「でも先生も、それを楽しんでいるんでしょ?」

「んー……まあ確かに、次はどんなのが来るのかなって期待している部分もありますけどね」

「来年こそは、ですね」

「はい。来年こそは返してもらいます……多分?」


 自信がなくて最後にクエッションマークをつけてしまったら、御夫妻に笑われてしまった。ほんと、患者さん達からも期待されているんだし、そろそろ返してもらわないとね、私のアヒル。



+++++



 そして休みになった次の日。


 私はなぜか実家のトイレの前で、天岩戸あまのいわとに隠れてしまった天照大神あまてらすのごとく、個室に籠城している父親をなんとかしようと、策を練るハメにおちいっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る