第十五話 南山さんの手は魔法の手?
もう一度ゆっくり堪能すると言った
「……」
まあ一度でも十分すぎるかな。だって朝からすでに何回目?って話だったんだし。
「
さっきから私が黙ったまま歩いているから、南山さんは少しだけ心配そうな顔をして、こちらを見下ろしている。そういうことを質問すなら、最初からもうちょっと手加減をしてくれたら良かったのに。他に比べるものがないから、なんとも言いようがないけれど、初心者に朝から何度もって無茶な気がする。
「そういうことを聞いてくるんだったら、もう少し加減をしてほしかったんですけど……」
ちょっとだけ非難じみた視線を向けてみたけど、ニンマリと笑ったところを見ると、あまり効果はなかったみたいだ。
「僕的には、十分に手加減したつもりでいるんだけどな。だって気持ち的には、まだ二人でベッドの中にいたかったのに、こうやって雛子さんに付き合って、おとなしく外出もしているんだから」
「私が出掛けたいって言わなかったら、ベッドから出る気なんてなかったくせに」
シャワーを浴びた後に、出掛けたいと言い張った時の南山さんの表情を思い浮かべる。明らかに僕は不本意ですと、言いたげな顔をしていた。
「まあ、そうしたいのはやまやまだったんだけど、現実的にどうしても出なきゃいけない事情もあったからね」
「事情って?」
「僕達が使うものが品切れになったから、買わないといけなかったんだよ」
「私達が使うもの?」
「うん。さっき使ったのが最後の一個だった」
そう言ってから、意味深な顔をする。
「ああ……あれ、ですか」
「そういうこと。さすがになにもなしで、雛子さんのことを抱くわけにはいかないから」
「でもそれは急いで買う必要はないかも」
「どうして?」
「私はこのまま自宅に戻るつもりだから」
その言葉で南山さんは、前もって伝えてあった今月の私のシフトを思い出したようで、なるほどと納得したようにうなづいた。
「そう言えば、明日は仕事だったね。自分が日曜日で休みだから、うっかりしてた」
日祝日は外来の診察が無いから、比較的ゆったりはしているけれど、当然のことながら病院には入院中の患者さんがいる。だから平日よりも人数が少ないながらも、病院スタッフ達は働いている。そして私も明日は出勤する日。朝から看護師さん達と打ち合わせをして、病棟にいる患者さん達の回診をしなればならないのだ。
「ごめんなさい。もう少しゆっくりしていたいんだけど、家に戻って用意しておかなくちゃいけいないこともあるし」
「分かってる。まずは研修を無事に終えることが第一だからね」
で、南山さんの買い出しの思惑はともかくとして、私が出掛けたいと言い張ったのは、この近くに美味しいクリームパンを売っているパン屋さんがあると、南山さんから聞き出したから。美味しいと聞かされては、クリームパン好きとしては行かないわけにはいかない。近所でもそこそこ人気のお店らしいので、売れ切れていなければ良いのだけれど。
「朝はコーヒー牛乳とクリームパンだっけ? あれはお決まりの組み合わせ?」
「そう。私の朝ご飯は、クリームパンとコーヒー牛乳が定番なの」
「そう言えば、最初に電話番号とメールアドレスを書いてくれたレシートも、クリームパンだったような記憶が」
「院内のコンビニで仕入れているクリームパンの半分は、私が消化しているとも言います」
私の言葉に、南山さんはそんなに好きなのかと愉快そうに笑った。
そしてお店で目的のクリームパンを五個買った。人気商品らしく山積みなっていたので、安心してトレーに五個乗せていたら、外からこっちを見ていた南山さんに、呆れた顔をされてしまった。だって好きなんだもの、一人で五個買っても良いじゃない、ちゃんと自分で食べるんだから。
「もう少し自宅に近かったら、通っちゃうんだけどなあ……」
「そんなに好きなら、次にそっちに行く時に買っていってあげるよ」
「本当?」
嬉しくて声が弾んでしまうのもしかたがない。
「だけど、次にそっちに行けるのはいつになるか、分からないな。仕事納めまでは忙しくなりそうだから」
「忘年会じゃなくて仕事でってこと?」
「うん。外国の大使館は、クリスマス休暇に入ったらそのまま年を越すまで休みに入っちゃうからね。それまでに片付けなくちゃいけない仕事があるんだ。雛子さんの方は、まだ決まってないのかな?」
「先生達の年末年始のお休みの予定がうまってから、私達の休みを振り分けるから、決まるのはもうちょっと先だと思う。多分お正月のお休みは、年明けになってからかな……」
「そうか。じゃあ、年明けに予定が合うようなら、
「シフト表を貰えたら、すぐに知らせますね」
「うん」
そして駅までお喋りをしながら歩いた。切符を買っていると、南山さんがホームまで送っていくよと言って、一緒についてくる。
「そこまでしなくても良いのに」
「僕が少しでも雛子さんと一緒にいたいっていうワガママだから、気にしないで」
だけどホームに上がると、すぐに電車が入ってきてしまった。
「仕事のしすぎで無理しないでくださいね。風邪かなと思ったら、できるだけ栄養のあるものを食べて、温かくして早く寝るように」
「分かりましたよ、雛子先生。雛子先生も、患者さんから風邪をうつされないように」
「お互いに次も健康な状態で会いましょう」
「心得ました」
電車のドアが閉まった向こう側で、南山さんがニコニコしながら手を振っている。そしてその手には、私のアヒルが。
「?!」
そんなはずはないと、慌ててアヒルを放り込んだバッグのポケットに手を突っ込んだ。指に触れた細長いプラスチックの物体を引っ張り出して、目の前に出す。そこに現れたのは、アヒルとは似ても似つかない生き物の姿!!
「……なんでダイオウグソクムシ?! いつの間に!!」
+++++
……と言うわけで、昼間から
「そんなに笑うことないじゃないですか!!」
「もうこの件に関しては、笑う以外にどうリアクションすれば良いか分からないよ」
笑いすぎて涙まで流している。
「南山さんの自宅を出る直前に、間違いなくカバンの中のポケットに入れたはずなんですよ。彼は先に玄関で靴を履いていたんだから、絶対に気がつかなかったはずなのに」
夜中にアヒルが頭の上に落ちてきたのも謎だけど、それ以上に、アヒルとダイオウグソクムシが入れ替わっていたことが衝撃だった。南山さんに見られてもいなかったし、一度もバッグは手放さなかったはずなのに。
「盲腸さんの特技はマジックなんだろうね。そうでなかったら超能力者か。もうアヒルを取り返すのは、君が盲腸さんちにお嫁に行くまで、あきらめほうが良いんじゃないかな?」
それだけ代わりのボールペンをもらっているんだから、アヒル一羽ぐらい南山さんにあげてしまったら?と、笑いすぎて流した涙を白衣の
「なに言ってるんですか、なにがなんでも取り戻しますよ。万が一、南山さんちにお嫁に行くとしても、アヒルは嫁入り道具の一員として行くんですから」
西入先生はそんな私の言葉を聞いて、意味深な笑みを浮かべる。
「なるほどね。どうやら進展もしたようだし、僕も一安心だ」
「な、なんでそういう話になるんですか。例えばの話ですよ。最初にお嫁入り道具の話をしたのは、西入先生だってことを忘れたんですか?」
だいたい、なんでそこで先生が一安心なのか?
「はったりをきかせられないところが、北川先生の課題点だね。まだまだ嘘をつくのが下手くそだ」
ダメダメお見通しだよと、目の前で人差し指をチッチッチッと振られてしまった。
「嘘のつき方なんて、あまり上手になりたいとは思わないですけど……」
南山さんとの間に起きたことを先生に隠すための
「嘘も方便ってことわざがあるように、患者さんのために嘘をつかなきゃいけない事もあるんだよ。例えば、病名を本人に宣告しないと御家族が判断した場合もその一つ」
「ああ、そういうことですか……」
「まだ先は長いんだ。そういうケースに立ち会うことになる時も来るだろう。その時に主治医である自分がおたおたしたら、御家族のためにも患者さんのためにもならないだろう?」
「そうでした。ちゃんと勉強します、必要な時の嘘のつき方」
よろしいと西入先生がうなづいた。
「それで?」
「それで、とは?」
「盲腸さんとは一歩進んだ関係になれたんだろ? じゃあ次のあちらの一手はどういったものなのか、気になるなと思って」
次の一手って将棋じゃないんですからと、ツッコミを入れる。
「特になにもないですよ。いつも通りです……多分」
一歩進んだから、アヒルは返してもらえるものだと思っていたけど、結果はダイオウグソクムシだった。この件に関しては、どうやらまだまだ続きそうな気配だ。
「御家族に対面とかないのかな?」
「そんな話は出てませんよ。年末の仕事納めまではあちらも、各国大使館がクリスマス休暇に入ってしまう前に片づけなきゃいけない事が山積みだって言ってましたから、それどころじゃないでしょうし」
そしてうちの病院も、忘年会シーズンに入るとなにかと忙しくなる。急性アルコール中毒になって運び込まれてくる人、忘年会の帰りに飲酒運転をして事故を起こして運び込まれてくる人、泥酔して暴れて自分で勝手に怪我をする人などなど。とにかく嬉しくない理由で忙しくなるのだ。
「それよりですね、アヒルをなんとしてでも取り返したいんです。なにか良い方法はありませんか?」
「ないねえ」
「即答って薄情な……」
「どうやっても無理な気がするんだから、しかたがないよ」
あきらめなさいと言われても納得がいかない。だってあれは、私のアヒルなんだから!
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