第二話 患者の名前は南山さん

「ご気分はどうですか?」

「最悪です」


 夕方になって、麻酔から目を覚ましたらしい盲腸の人の病室に立ち寄って声をかけると、どんよりした返事が返ってきた。ベッドの頭のところには、南山みなみやま裕章ひろあきと書いてある。あらためて相手をじっくり観察してみると、もしかして私より年下な患者さんかもしれない。


「しばらくは痛みがあると思いますから、痛い時は我慢しないで、遠慮なく看護師さんに言ってくださいね、痛み止めの薬を出しますから。それと聞いていると思いますけど、許可が出るまで食べられないので、そちらも我慢してください」

「痛いのも食べられないのも、変なくだが自分に挿し込まれているのも、かまわないんです。それより自分としては、仕事のほうが気になって、早く退院したいんです」


 どうやら私が思っていた最悪は、南山さんが感じている最悪とは違ったらしい。


尿管にょうかんカテーテル、平気なんですか?」

「まったく平気ってわけじゃないですけど……なんだか気持ち悪いですし」

「ですよねえ」


 たいていの人が最初にショックを受けるのは、数日間ご飯が食べられないことよりも、トイレに行かなくても良いようにと差し込まれた、カテーテルと自分がつながれている状況だった。特に男の人は我慢ならないらしく、早々にはずしてくれと言い出す人が圧倒的に多い。まあそのお蔭で予定より早く歩き始めるから、回復が早まる人もいるにはいるのだけれど。


「あのう、僕はどれぐらいで、退院できますか?」

「そうですねえ……。順調にいけば、一週間ぐらいの入院ですむと、考えています」

「え?! そんなにですか? だって盲腸ですよね? うちの上司が盲腸の手術をした時は、三日ぐらいで退院したんですが!!」

「それは、腹膜炎を起こしていない人の場合ですよ。南山さん、明日にでも切り取った部分をお見せしますけど、かなり酷かったんですよ? 破裂してなくてラッキーだったと、執刀した先生が言ってました」


 だけど目の前の南山さんは、すでにこちらの話を聞いていない。一週間も!とか、そんなんじゃ絶対に間に合わない!とか、なにやら青い顔をしながらブツブツとつぶやいている。


「あの、なにか大事な取引でもあったんですか? お家の方には連絡しましたから、職場にも連絡が入っているはずです。無断欠勤にはなっていないと思いますけど」

「三日後に、南米に対するODAの会合がこちらであるんです」

「……オーディーエー……」


 とっさに頭の中で正しい単語が出てこなくて、棒読みでつぶやいてしまった。


「政府開発援助です」


 その言葉を聞いて、ようやく正しい単語が頭の中にできあがった。


 Official Development Assistance、略してODA。たしか外務省が主導だったような。


「もしかして南山さんって、お役所勤めなんですか?」

「外務省に勤めてます」


 お役所どころか、活動の総元締めの組織の人だ。


「今回の件は、僕が入省して初めて携わる、大型プロジェクトだったんですよ……あの、本当に一週間の入院ですか?」

「術後の経過が良好ならばってことですけど」


 たまにいるのだ、手術後に痛くなくなったと喜んで、夜中にベッドを抜け出しては、屋上でお酒を飲んだり煙草を吸ったりする人が。もちろんそんなことをすれば病状は逆戻りで、結果的に入院生活が長くなってしまい、今度はなかなか退院できないともんくを言い出すのだから、本当に始末に負えない。


 こちらの指示に従わないで、ウロウロしようものなら入院生活が長引きますよと釘を刺すと、南山さんはガッカリした顔をした。


「会合の資料準備が、まだ中途半端なのに……」


 遅くまで頑張ったのにあんまりだと、なげいている。


「もしかして、痛かったのに我慢して、仕事を続けていたんですか?」

「かなり前から痛かったんです。だけど、きっと大きなプロジェクトに初めて携わるから、それで神経過敏になって、胃が痛くなったりお腹が痛くなったりしているんだろうって、それほど気にしてなくて」

「それって、気にしてなかったって言うより、気にしないようにしてたってやつですよね?」

「……そうとも言います」


 やれやれと溜め息が出てしまった。まあ、南山さんの気持ちはわからないでもない。自分だって、初めて大きな手術のスタッフとして参加することになったら、きっと同じように、多少の体調不良ぐらい目をつぶっただろうから。だけどそれを、目の前の患者さんに言うつもりはない。


「大事なお仕事だったのはわかりますけど、破裂しちゃったら、それこそ大変なことになってたんですよ? 下手したら、二度と大きな仕事に参加できなくなっちゃって、あちら行きだったかもしれません」


 そう言いながら、上を指す。


「五階に?」

「違いますよ。さらに高いところにある、天国とかあの世とかいう場所です。腹膜炎は、ショック死することだってある、怖い病気なんですからね。脅しているわけではありませんよ? とにかく南山さんは、手遅れ一歩手前だったということをしっかり自覚して、こちらがよろしいと言うまで、おとなしく養生してください。良いですね?」

「……はい」


 私が強めの口調で言い渡すと、ショボンとした顔をしてうなづいた。聞いてみれば、実家は東京湾を挟んで向こう側にある県のようで、ご両親は、仕事が終わってから必要な物一式の用意をして、こちらに顔を出すことになっているらしい。ご家族が来れば、無茶なわがままも言わなくなるだろう。


「あの、ところで……」

「なんでしょう?」

「もしかして、先生も僕の手術に立ち会ったんですか?」

「はい。私が南山さんの担当医ですから」

「そうですか……」


 さらにショボンとした顔になった南山さんの様子に、首をかしげる。もしかして、研修医の実習に利用されたと思っているんだろうか?


「心配ないですよ、執刀したのはベテランの先生ですし。私は横で見ていただけです」

「ってことは、見たってことですよね?」

「なにを?」

「僕のお腹の中を」

「そりゃまあ、癒着ゆちゃくしている部分とかあれこれ。あ、癒着ゆちゃくしていた部分以外は綺麗でしたから、安心してください」


 私の言葉に、南山さんは安心するどころか、ウ~とかアアアとかわけのわからない声をあげはじめた。


「あの、痛いんですか? 看護師さんを呼びましょうか?」

「そうじゃなくて、美人の先生にお腹の中を見られたなんて、恥ずかしすぎる!!」

「いやほら、中身なんて皆さん同じですから……」


 美人だなんて今まで言われたことがなかったので、意外な言葉に驚きつつも慰めてみるけど、本人は再びこちらの言葉を聞いていない様子。さらには明後日あさってな方向で、良からぬことを考えていそう……。


「もしかして……」

「はい?」

「もしかして、これをしたのも見たんですか?」


 そう言いながら、布団で隠れている自分の下半身を指でさした。どうやら、尿管にょうかんカテーテルのことを言っているらしい。


「それを挿管そうかんしたのは、私じゃなくて看護師さんですけど」

なくても見てたんですね?」

「まあ、後学のためということで。あ、ほら、皆さん、形はそれぞれ違っていても、持っているものは同じですから。別に誰のがどうとか、そういうのは気にしてないですよ? それと、挿管そうかんしたのはベテランの看護師さんで、多分、南山さんのご両親と同じぐらいの年齢だと思いますし」


 自分なりに頑張って慰めようと、色々と言ってみたけれど、南山さんにとっては、どれも傷口に塩を塗りたくるようなことだったらしく、そのうちグッタリとして目を閉じたまま、動かなくなってしまった。


「あの、南山さん、大丈夫ですか?」


 急に動かなくなってしまったので、息をしているか心配になってのぞきこむ。


「もしもーし?」


 私の問い掛けに、うっすらと目を開けた。


「……そっちの方がショックすぎて、仕事のショックは忘れられそうです」

「それは良かったですね?」

「ショック療法が、思いのほか有効な治療手段と判明して良かったです……かなりダメージ食らいましたけど」

「今日はゆっくり休んでください。痛むだろうし、カテーテルや点滴のせいで、快適とは言えないでしょうけども」

「ありがとうございます」


 南山さんは大きな溜め息をついて、再び目を閉じてしまった。



+++++



「なるほど。仕事中毒で痛みを無視していたら、危うく破裂しかかったってことなのか」

「らしいです」


 仮眠室で一眠り以上して、人間らしさを取り戻した東出ひがしで先生にそのことを報告すると、おごってやるから食っていけと食堂につれていかれ、カルビ丼を食べるハメになった。たしかにおごってもらうつもりではいたけれど、まさかその日の晩ご飯に、しかもこんな時間から食えと命令されるとは思っていなかった。ちょっと食べきれるか心配になりながら、目の前のどんぶりをながめる。


「まったく。最近の連中の間には、休んだら死ぬという風潮でもあるのか?」

「まあ、大型プロジェクトに初めて携わったとか言ってましたから、南山さんとしては、最後までやり通したかったんでしょう」

「馬鹿馬鹿しい」


 私の言葉に先生は、馬鹿にしたような呆れたような声をあげた。


北川きたがわ

「はい?」

「その患者、きちんと監視しておけよ」

「まさか脱走するとでも?」


 さすがにそんなことはしないと思いますよと言ったけれど、先生は別のことを考えていたようだ。


「いや、絶対にお仲間がやってきて、病室を外務省の出張所にしやがるだろうから」

「まさかー……」

「いや、官僚というのは油断もスキもない連中だからな。病室に行く時間は不規則にして、相手に行く時間を気取られるな」

「先生、どこかのスパイ映画じゃないんですから……」


 その時は、笑って東出先生の言い分を真剣に聞いていなかった私だったけれど、この時はまさか次の日早々から、先生が言っていた通りのことが起きるとは、思っていなかったのだ。

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