白くて美味しい本棚

彌(仮)/萩塚志月

10月号 『指先、てのひら。いとしさの欠片たち、』



【懸想の先に】


 彼の指先は楽器である。

 彼の指が爪弾く音は、他の人とはひと味違う。他の人が同じ機材を使って弾いても、同じ音は鳴らない。きっと、同じギターからは同じギターの音しか鳴らないのだから、彼の指先が楽器なのだ。

 彼は、赤いギターを弾く。

コカ・コーラの缶と同じくらいに赤い、ヴィンテージギターだ。いつも天を仰ぎながら、他のギタリストとは違って暴れもせずに、ただ二本の足で地面を踏みしめたまま、彼にしか出せない音でヴィンテージギターを弾く。彼は、照明の眩い光にのまれながら、赤いギターのなかで、青い音を静かに掻き鳴らしている。

 青い音、それは温度の高い音である。

炎の、熱いところと同じ色。炎の輪郭を形作るもの。ともすれば、温度が高すぎるせいで人を寄せ付けないように見えるそれは、彼のいる場所の音楽すべてを優しく、そして強く支えている。青い音、それが彼という楽器としての存在である。

彼はずっとステージに立っている。

ステージに満ちる光は、ずっと彼を照らしているわけではない。しかし、彼は暗闇に溶け込んでも動じないまま、二本の足で地面を踏みしめ、ずっとステージの上にいる。時折イヤーモニターを外し、手を耳の後ろで広げ、目を瞑り、心を研ぎ澄ませながら立っている。彼は歓声を自身へと反響させ、全身で音を聞く。彼の身体は、しばしば指だけではなく、その全身が楽器になる。広げた手を伝って、耳を伝って、彼の身体すべてに歓声や歌声が反響したその時、彼は微かに笑みを浮かべるのだ。そしてまた、時が来れば彼はイヤーモニターをつけ、指先だけを楽器にして、元居た音楽の中に混じっていく。

確かに彼は、世間一般で言われるギタリストとは程遠いのかもしれない。全身を使って音を奏でることは、ほとんどなく、赤いヴィンテージギターを肩にかけて、その場で天を仰ぎ立ち続ける姿は、バンドを組むタイプの人間の中では明らかに異色である。

それでも異色であること自体が、彼自身の纏う音楽を形作っているのである。




【貴方の】


 誰に手を引かれて居るのかも分からないまま、目の前のその人によって生まれる人混みの隙間を、ひたすらに歩き続けている。まだこの辺りの景色はわかるけど、この先、私はどこへ連れていかれるのだろうか。

「うちの子に、なりますか」

 微かだが様々な感情を、ゆっくりと圧縮したような声で先程そう尋ねられた。私が頷いたのは、本当にこの質問だけ。他には会話もなく、頷いたら左手を取られて、そのまま彼は歩き始めてしまった。よって私が彼について知っていることは、何もない。

 しいて外見の話をするのであれば、とても端正だった。視界に入る全ての肌は陶器のように美しく、まるで作り物の様だった。黒のコート、白いニットと黒いスラックスのせいで肌は殆ど見えていない。それなのに、細部まで美しいのであろうということが、いとも容易く想像できた。美しいといっても女性的な美しさではない。ただ、端正だった。それでも、表情には確かに人間らしさがある。そしてその人間らしさの内側に更に、何か簡単には触れられないような、一種の不思議な引力のようなものを湛えていた。

 結局のところ、美しく端正な、男の人。あ、手も綺麗だな。と、少し考えても、私の中に残った情報はたったそれだけだった。彼を見て浮かぶのは、ただの平坦な感想だけだった。

 だから私が彼の言葉に頷いたのは、何が理由でもない、たぶん。彼が内包する不思議な引力に惹かれたからとか、薄ら寒く夢見がちなことを言うつもりもない。だからもしかしたらこの後、切り刻まれて臓器を売られるのかもしれない。とか、かなり極端に不吉な考えが頭をよぎる。

 それでも、今、この手を振り切って逃げようとは思わない。先へ先へと歩んでいる彼は、私の手を壊れ物のように、包み込むように握っている。私を、ただの臓器の入った袋とは思っていない人の手だと思う。恐怖に感じているのは、この端正な顔の人ではなく、行く先だろう。なら大丈夫だと、自分に言い聞かせてみたりする。

 そう、でも、結局のところ。情緒のない言い方をするならば、私に声をかけたこの端正な人に、興味を持ったから付いてきたのだ。多少の恐怖を超える興味があったからついてきたのだ。脳内でわざわざ固い言葉に直して、自分に言い聞かせてみたりもする。でもやっぱり、先に不吉な考えがよぎってしまった頭の中を簡単には変えることができずにいる。でも、でもと、自分の脳内を塗り替える作業を繰り返すことで足を前に進める。適当な言葉を、頭の中で紡ぐ。でも、この人がいるのであれば、きっと死んでしまっても素敵な人生だ、とか。やはり薄ら寒く感じるけれど、一見、薄ら寒い言葉が、こんな状況にはぴったりなのかもしれない。

逆説的にそんなことを考えてみて、でも、それなら、こんなお伽話のような状況に甘んじてみてもいいんじゃないかと思って、きゅっと、彼の手を少し強く握ってみる。

すると彼は、ふっとこちらに顔を向けようとして、でもすぐにやめて、そして、彼は正面を向き歩いたまま、私の手を、同じようにきゅっと、握り返した。

 あ、と思った。

 たった、それだけ。たったそれだけの行為だった。それだけで、この人の家の子になる事を決めるには十分だった。まだ言葉にできる理由はない、ただ先程までの不吉な考えに、ずっと寄り添っていた恐怖が、靴の裏を伝ってゆっくりと地面に吐き出されていく感覚があった。単なる興味が、柔い安心感と微かな期待に変わった瞬間だった。

 人混みを抜けて、彼は少し歩調を緩めた。私は行き先を気にすることもなく、彼の半歩後ろを歩き続ける。

 歩調が変わっても、私は、彼の掌を信じていた。




【拝啓、私の想う】


 君に、大好きな君に。最期はその綺麗なてのひらでころしてほしいと願うのは、卑怯なことなのだろうか。


あぁ、なんて馬鹿馬鹿しい。

 神の贖罪など、ありはしないのに。




【蠢き】


 あぁ、これは夢だ、と思った。


 全てが光に包まれる中、遠くで、男女が談笑している。白で囲まれた空間の中央に立つふたりは、双方見知った顔をしている。

名前は知らない。というより、夢の中だからか、いつも思い出せない。朝になって目を覚ましても、反対にふたりの顔は綺麗さっぱり忘れている。だから見知っているけれど、本当は知らない人。それか、知っているけど、夢でなければ絶対に思い出せない人。結果的にふたりとは、夢の中という曖昧な空間だからこそ成立する関係性なのかも知れないと思っている。勝手に。

 声は聞こえないが、穏やかに仲睦まじく笑いあっているのが見て取れる。表情からは幸せが零れ、ふたりはふたりからあふれる陽だまりのような気配に包まれている。ふたりを中心に、この空間の光が生まれている。

 自然に、混ざりたいと思った。あの満ち足りた空間に、自らの身体をぴったりと沿わせることが出来たなら、なんて幸せなことだろうと思った。

 一歩、また一歩、ゆっくりとふたりに向かって足を進める。ふたりを中心にグラデーションのように広がる優しい暖かさに、身体を馴染ませていく。ふたりに近づく度、幸せの密度が上がっていくのが肌で分かる。ふたりに近づく度、また一歩先への期待が膨らむ。

 ふたりに手が届きそうな、そんな距離まで歩いた。静かに息を吸い込む。

「ねぇ、」混ぜて。

そう音にした。

瞬間、ふたりの喉の奥から這い出てきた凄まじい数の蛾が、ふたりの身体を伝ってふたりの全てを包んだ。ザァッという羽音と目の前に広がる光景に息をのみ思わず後退る、が、飲み込まれていくなかにふたりの柔らかい眼光を見つけ、はっとして咄嗟に手を伸ばした。伸ばした時には既に、ふたりはその身体の殆どが分厚い虫の層の奥に飲み込まれていた。

でも、まだいる。微かに期待だと分かっていながら、それでも掴もうと伸ばした腕に、数えきれない程の細い足が這う。掠る大量の羽根が細かく振動している。蛾は蠢き、二人の姿を根こそぎ消し去っていく。ふたりの纏っていた幸せが、全て蠢きながら蛾として零れ出ているかのように、虫は留まることを知らない。視界が徐々に滲む。滲んだ視界を取り戻すこともできない。

だから、あ、と思った時にはもう遅かった。乱れた呼吸のために、開けた口から、蛾が一匹入り込んだ。しまった、と思った時にはもう遅く、二匹目が入り込む。思わず身体ごと顔を背けた。

口から蛾を地面へと吐き出した時、背後でまた、ザァッという音がした。手の震えを、止められない。恐る恐る振り返ると、ふたりだったはずのそれは、すでに死骸の山になり果てていた。


 自分の目から溢れた涙は、まだ拭えなかった。

あぁ、これは夢だ、と思った。

あぁ、これは悪夢だ、と思った。




【情死】


「まず大前提として、同時には死ねないと思うんですね」

 今から希望を持って、「共に」死ぬ為に話していた時だった。黒板を背景にして目の前に座る後輩は、完全に意図に反する発言をした。後輩は、僕の目を真っ直ぐ見据えている。冗談を言っている人間の瞳ではなかった。

 しかし流石にこれは憶測だろうと、踏む。

「でもほら、心中だろ」

「心中ですね」

 僕は制服の胸ポケットからおもむろにスマートフォンを取り出して、検索エンジンに数秒打ち込み、後輩に向ける。

「なんて書いてある」

 後輩は、凛とした声で液晶に映る文字を読み上げた。僕はその美しい音を聴きながら、伏せられた睫毛を見つめる。後輩の睫毛は、規則正しい形の窓から差し込む朝の光に反射して、声に合わせて揺れて、きらきらしていた。

 それを見つめていると、最後まで読んだのだろう、口を閉じた後輩の気配を感じて、僕は口を開く。

「『一緒に』って、書いてあるだろ」

「そりゃあ、例えば投身自殺だとして、崖から飛んだ瞬間は一緒でしょうけど」

 後輩は、向けられたスマートフォンを右手で柔らかく奪い取って、僕らを隔てる机の上に臥せる。後輩はもう片方の左手を空いた僕の手に絡めた。お互いの指の隙間が埋まる。後輩の手は少し細くて骨が当たる。白くて、弱そうな手。きゅっと握り返すと、きゅうと握り返される。

「手が離れる瞬間は、ありますよ」

 言葉に反して、握る力は少し強くなる。少し骨が食い込む。多少は痛いけど、決して嫌な感覚ではない。その心地に揺蕩ったまま、後輩の言葉に、やんわりと否定を重ねる。

「紐、いや、ガムテープで縛ればいいだけだ、離れないように」

「それでもいつかは外れますよ」

 後輩は僕から目を外さずに言った。これは、事実なのか。

「知ったような口、聞くな」

「知ってますから」

 微笑む後輩のせいで、言葉に、確かに事実だという箔が付いた。そのことに気が付いた途端、一瞬で頭に血が上って、こちらから骨を食い込ませに行くと、ふっと、後輩の手から力が抜ける。同時に後輩は顔を顰めた。上ったものが急激に下りて、手の力を緩める。

 僕の口が謝罪の言葉を紡ぐ前に、後輩が口を開く。

「知ってる癖に、意地悪ですね」

 吐き捨てるように言った後輩の言葉に、なんと返せばいいかわからない。怒りは、今しがた下げたばかりだ。上がるものはない。そこはかとなく、咎められているような気持ちになった。

 当然だ、僕は、こいつが、元カレと投身自殺をしたことを知っている。後輩のみ未遂に終わったことも。

「あぁ、でも、崖から足が離れる瞬間も一緒じゃなかったですね」

 うで、ひっぱられたし。

 聞こえた瞬間、言葉に釣られて勢いよく椅子から立ち上がった。手が離れて、目が合う。あまりにも光のない瞳。

 完全に煽られている。それはわかる。でも、なら、煽るような言動を繰り返すこいつは、今、何を考えているのだろう。多分、少なくとも、僕のことじゃない。

 結局声が出なくて、僕の方から目を逸らした。悔しい。こいつの目から、僕の知らない男が消えない。段々と、学習机の木目が、檻のように迫ってくるような気さえする。自分が何を考えていて、何をしたいのかもわからない。僕らを隔てるものは、あまりにも大きい。壊したい、殺したい。

「……腕を引っ張られたのは、お前が飛ばなかったからだろ」

 思いの外、情けない声が二人しかいない教室へと反響した。たっぷりとした沈黙が周囲を満たした後、凛としたままの後輩の声が、鼓膜を揺らす。

「そうですね、飛びませんでしたよ」

 声につられて、顔を上げた。目が合ったが、表情が読めない。瞳の奥は、やはり虚空で埋まっていた。

「『男女一緒に』って、書いてあるでしょう」

「え、」

「心中」

「何が言いたいんだ、」

「……ちゃんと、読んだことないんですね」

 朝日は、まだ、僕らに降り注いでいる。立ち上がったまま、伏せられたスマートフォンを手に取り、ロックを解除して少し離す。反射した光で、液晶は何も見えなかった。スマートフォンを持った手を下げ、後輩を見ると、旋毛だけがこちらを向いていた。目が合わない。反射から外れた液晶には、確かに、男女の文字がある。

「覚えるくらい、何回も読みました。何回も、」

 泣いているような気がして、慌てて椅子に座りなおし、後輩の顔を覗き込んだ。涙は一滴も零れていなかった。目が、合わない。

「それは、自分を確認する作業でもありましたけど」

「りょう、……」

 後輩は起き上がったが、依然として目が合わない。大して表情も見えないまま、言葉だけが後輩の口から零れ続けていた。

「自分のこと考えてたら、気づいたらあの人だけ死んでました」

 スマートフォンを離し、ゆっくりと後輩の頬に両手を添える。目を、強制的に合わせた。

「また死ぬんですか、おれの恋人」

 涙は零れていない。こらえているわけでもない、困惑、のような感情だけが浮かんでいた。顔を挟んでいる両手に、嫌がる素振りはなかった。何と声をかけていいかわからないまま、数秒が経過する。言葉が見つからないまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。

「泣くなよ、」

「泣いてないです」

「……知ってる」

 的外れなことを言っている自覚はあった、ずっと。

 後輩の白くて細い両手が、僕の手に重なる。

「あの人、誰にも何も言われない場所に行きたかっただけだと思うんですよ」

 きゅうと握られた掌から、恋人の言葉が振動になって伝わってくる。恋人の言葉の端からは、愛しいという感覚も、零れていた。僕以外に向けられた、愛しいという感覚。また沸々と、血が湧きたつのを感じる。そう、だから、僕はこれに怒りを感じる。

「俺は、あの人といられれば何でもよかったのに」

 覆いかぶさるように、隔てる机にみぞおちを殴られながら後輩の唇を奪った。もう、いっそ殺せないなら、こいつから出る言葉のすべてを奪ってしまいたかった。

 唇を離すと同時に、目を逸らさず言った。

「僕は、お前には生きててほしいと思ってる」

「せんぱ、」

 でも、と前置きして、薄い桜貝の様な唇を指でなぞった。

「お前の心に住んでるそいつは、さっさと殺したいよ」

 想像していたよりも冷たい声が出て、自分でも驚く。頬を掴んだままの恋人も、目を見開いた。

 優越感を感じると同時に、目の前の恋人と心中するより、恋人の心の中にいるそいつと心中する方が早いのではないかという自嘲的な思いも湧いて、笑ってしまう。

「どうする」

 きっと、僕自身が、一番どうしたいのか分かっていないのに。

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