課題とは。(S:少し、F:ふしぎ)
彌(仮)/萩塚志月
10月29日(木) 「深淵」
これが一番楽だと思った。
簡素な白熱電球が照らす中、横柄な態度で彼は言った。
俺はその言葉につられて、握りしめた拳で机を鳴らす。グレーの鉄板へと衝突した手の一部が熱い。
音の衝撃と同時に、胡乱な視線が俺に絡んだ。まるで俺自身を挑発しているように。
「おっさん、人殺したことないの?」
事実、挑発していた。俺だけでなく、彼は世の中の全てを敵に回していた。
「あるわけないだろうが、ふざけるな!」
「本当に?」
胡乱な瞳が一瞬、深淵を覗くような色へと変わったことに、つい息を呑んだ。
しかし、何に対する疑問なのだろう。事実以外の選択肢は、一体何が存在するのだろうか。
そんな俺を見てか、彼はふっと笑う。格好を崩したような気配がしたが、彼は寸分違わず、黒色のスリーピース・スーツを纏ったままだった。年にしては高いものを身につけているはずなのに、不思議と彼から衣服に着られているような雰囲気は感じない。俺の安いグレーのスーツより、余程様になっていた。
「楽だよ、最高に楽。そいつがいなかったら、自由になれる」
「そんなこと、」
「本当に? 幸せになんて一生なれないよ」
そんなこと、の続きは、二度目も紡げなかった。俺には分からなかった。彼の発した疑問の受け止め方も、その言葉の真偽さえも。もはや、俺自身が、彼を敵と感じているだけかもしれない。彼は誰も敵に回す気がないのかもしれない。そんな考えが頭を支配し始める。
「……だからやった。それだけ」
それ以上でも、それ以下でもない。そう、彼は言って、パイプ椅子の背もたれに身体を預け、天を仰いだ。彼の顎先から、顔にかかる影を見つめる。彼はそんなだらしのない姿勢にさえ、隙が無かった。
彼から視線を外し、向かって右手の壁、上部を覆う鏡を見る。その鏡、マジックミラーの向こうには人がいる。多分。しかしそれを意識したことは、ここに来るようになって以来、一度もなかった。いつだって俺は自分を信じてやってきたし、それこそが正義だと思っていたから。
それでも今日は、他人の意見が欲しかった。それくらいに未知の感覚だった。俺が学んできた場所には、こいつのような人間は例が無い。俺だけでは、解決しきれないような気がした。
人殺しをする人間は、いつも憎悪に溢れていた。自らの所業に高ぶる者も、苛まれる者も、総じて、意図的に殺した時は皆、殺した人間への想いを極限まで募らせていた。
だから知らない。こんなのは、人間ではない。
そこまで考えて、気が付き、頭を振った。危ない。完全に今、彼のペースに呑まれていた。彼から話を聞かなければならないのに、彼からの無作為な疑問を解消しようとしてどうするのだ。
彼は、未だに天を仰いでいる。
心を入れ替え、努めて冷静に、俺は声を発した。
「一つだけ聞かせてくれ」
彼はゆっくりと起き上がった。
「なに?」
息を、意識的に吸いこむ。今から口に出すことはすべて、ただの事実確認だ。
「遺体が見つかっていない」
「そうだろうね」
事も無げに、彼は返した。
「どこへやったんだ」
「どこにも。初めから無い」
「……どういうことだ」
「初めから無かったんだよ、存在が」
それも楽な要因だね、と彼は言った。彼が、今どういう感情でいるのか、判別がつかない。それに、無いってなんだ。
「おじさんは、人間を、身体があるかどうかで判断する人?」
また、突拍子もない質問だった。答える義理はないが、答えない義理もなかった。
「当たり前だろう」
訝しげに言うと、彼は、徐に瞳の奥を晒した。
それを見て、俺は身体が硬直するのを感じる。しまった、感情の判別がつかないからと、慎重さに欠けた。確実に今の俺は、蛇に睨まれた蛙だった。
彼の瞳は、暗い闇のような、底の見えない沼だった。触れれば呑まれるしかない、深く、何度も隙間なく塗りつぶされた黒。その黒は、スーツの色と重なった。
黒の奥には何も見えない。要するに、彼の中は、ただ、カラッポだった。
ここでやっと、彼は深淵を覗いているのではなく、それを湛えているのだと気が付いた。
「体があっても、中身が無いのは人間じゃないよ」
「……おまえ、は」
「おじさん、本当に人殺したことないの?」
人殺しとは、何なのだろうか。殺める、とは? 何を、誰が。足元から、徐々に崩れていくような感覚に陥る。彼によって、俺の内臓がすべて掻き混ぜられるような、抉られるような、そんな心地がする。ついに耐えきれなくなって、意識的に彼から白熱電球へと目を逸らした時、視界の端で彼が立ち上がった。
互いを隔てていたグレーの机を避け、動けずにいる俺の隣に立つ。恐る恐る、もう一度彼を見上げた。
「駄目だよ、人殺しは」
彼の深淵が、弧を描いた。人のそれは笑みと呼ばれるけれど、深淵を湛えた彼の笑みは、もはや笑みではない。道化師の様だった。腹の底から恐怖が膨れ上がる。
椅子を蹴飛ばして、その場に立ち上がった。大きな音が鳴ったが、それどころではなかった。立ち上がった、立ち上がって、逃げなければと思うのに、どこへ逃げたらいいかわからない。ドアなんて、この際、意味をなさないような気がした。
一歩、彼が近づく。俺も一歩、後ろへ下がった。視線を上げると、当然のように俺より高い背が、壁のように聳え立っている。潜在的な恐怖に、足がすくんだ。口を開いても、喉の奥が細く鳴っただけだった。
「ねぇ、そうだよね」
彼の手が、俺の肩を押した。身体がぐらっと傾いで、立て直す前にマジックミラーへとぶつかる。そうだ、見られているなら助けてくれる、
「誰も助けてくれないよ」
彼の声だけが、俺の耳へと滑り込む。底なしの絶望が、広がった。
この絶望からどうしても逃げ出したくて、横目に鏡を見た。そこへと映っていたのは、目の前にいる彼と同じ、深淵を湛えた瞳だけだった。
「当たり前だよね」
彼の手が、俺の首に触れる。冷たい手に抗えない。俺の身体も、ゆっくりと深淵に沈んでいく。じわじわと、視界がぼやけ始めた。
あぁ、でもやっぱり、カラダがある生き物を殺す方が楽しいね。楽じゃないけど。意識が途切れる瞬間、彼の声が、耳の底に反響していた。
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