第49話 帝国の正体です!

 



 今から100年も昔の話だ。


 少女はその日、冷たい床の上で目を覚ました。


 視界に移るのは、白色灯の光を淡く反射する、茶色いリノリウムの床。


 そして部屋と廊下を仕切るガラスの壁と扉。


 真っ先に頭に浮かぶ疑問は『ここはどこ?』だった。


 状況を把握するべく、体を起こす。




「うぐ……う、ぁ……っ」




 途端に、彼女は強烈な頭痛に襲われた。


 床に手を付き、苦痛の波が過ぎ去るのを待つが、期待通りにはいかない。


 なおも強くなる頭痛に、ついに彼女は耐えきれず嘔吐した。


 清掃の行き届いた床を汚す罪悪感に胸が痛む。


 だが、おかげで少しだけ楽になった。




「掃除……しないと、です……」




 自然とそんな言葉が口をついた。


 少女はようやく立ち上がると、改めて部屋を見回す。


 書類が散乱したデスクに、壁に埋め込まれた本棚、そして緑鮮やかな観葉植物――




「あの葉っぱ、なんだかおかしいです」




 葉と葉が絡み合うように結合していた。


 あやとりの糸のようだ。


 だがその交差点は、ただ重なっているだけでなく、完全に同化してくっついてしまっている。


 ――はて、あんな珍妙な植物がこの世界に存在しただろうか。


 思い出そうとすると、再びペルレスの頭が痛んだ。




「な、何かがおかしいのに……わからない、です。何も、思い出せないです……」




 彼女は全ての記憶を失っていた。


 自分が何者なのかも。


 ここがどこなのかも。


 だが、消えたわけではない。


 脳にぼんやりと何かが残っているのはわかっているのだが、どうしてもそれにかかったぼかしが取れない。


 手がかりを得るべくさらに部屋を観察すると、本棚の異常にも気づく。


 てっきり壁に埋め込まれているのかと思ったが、どうやら元々床に置かれていたはずものが、何らかの原因でめりこんでしまったらしいのだ。


 近づこうとして、足を前に動かした。


 だがつま先が何か重いものに引っかかって、「わっとと……」と少し体勢を崩した。


 足元に、白衣の女性が横たわっていた。




「他にも人がいたですか……もしもーし」




 反応はないが、体は暖かかった。


 意識を失っているだけ――そう思って頭のほうに視線を向ける。




「ひっ」




 引きつった声が出る。


 手術で切り取られたように、頭の上半分が無かった。


 頭部は鋭利な刃物で切除されたように見事に輪切りにされており、中にあるはずの脳が入っていない。


 青ざめた顔をして後ずさる少女。


 かかとが、ぐにゃりと何か柔らかいものを踏んだ。


 ピンク色の脳だった。




「ひいぃっ、いやあぁあああっ!」




 思わず叫んで、転び転がる。


 脳は床に埋まっており、踏んだ場所には靴の跡がくっきりと残っていた。




「なんなんですかぁ……何が起きてるんですかぁ……っ!」




 思わず頭を抱えて喚くが、返事はない。


 あたりに人の気配は無かった。


 そのまましばらく動けなくなった彼女は、ふと倒れた女性の近くに落ちている名札の存在に気づく。


 そこに記された名前は――




「ペルレス・ヴァルモンターグナ……」




 読み上げた瞬間に、彼女の脳にかかっていた霧の一部が晴れ、それが自分の名前であることを思い出す。




「私は、ペルレス。そうです、ペルレスです……それは、はっきり覚えてるです!」




 だが、それっきりだった。




「でも他は全然思い出せないです……ううぅ……」




 どれだけ頭を抱えてもサルベージはうまくいかない。


 むしろ頭痛が強くなるばかりだ。


 これ以上は無駄だと彼女は諦め、部屋から出ることにした。


 オフィス内は清掃が行き届いており綺麗だ。


 だが先ほどの部屋同様、おかしな場所が多い。


 床が真四角に抜けていたり、天上が床に向かってせり出していたり。


 また、廊下の左右にずらりと並ぶ、他のガラス張りの部屋にも、奇妙な死体が転がっていた。


 体が上下、あるいは左右で真っ二つになっているのはマシな方だ。


 腹部だけがずれて・・・いるものや、腹部に頭部が埋まっているもの、口に切断された脚部が突っ込まれ顔が裂けているものまであった。


 そういった死体を見るたびに精神が削られ、頭痛が強まる。


 終いには、どこからともなくうめき声まで聞こえてくる。




「……すけて……たす……えぇ……」




 助けを求める声。


 きっと手遅れだ。


 そうわかっていながらも、見捨てるわけにもいかず、ペルレスは声のするほうへと進んだ。


 彼ら・・は廊下を這いつくばっていた。




「げほっ……ご、ふっ……助けて、くれ……俺の体は、どうなってるんだよぉお……!」




 匍匐前進で近づいてくるその中年男性の体は、もうひとり、別の男性の体と融合・・していた。


 ちょうど胴体がクロスするような形である。


 そしてどうやら、もうひとりの男のほうはすでに絶命しているようだった。


 もちろん、生きている方も無傷では済まない。


 咳き込むたびに、口からどろりとした血が吐き出される。




「助けてえぇ……!」




 腕からも力が抜け、声は次第にか細くなっていった。




「た……け、て……」




 そして、恐怖で動けないペルレスの足元までたどり着くと同時に、命を落とす。


 彼女は呼吸を震わせ、わずかに後ずさって、靴に乗っていた男の指先を振り落とした。




「何なんですか……こんなの、私、知らないですうぅぅっ!」




 思わず叫び、走り出すペルレス。


 出口までの道は、なぜか体が覚えている。


 彼女はあっという間にロビーまでたどり着き、そして体当たりするようにドアを開いて建物を脱出した。


 空は――灰色だった。


 工場から吐き出された煙で覆われているのだ。


 立ち並ぶ建物は、飾り気のない鈍色が多く、ふいにペルレスはそこが“ハイメニオス”と呼ばれており、俗に“鉄の街”と言われていることを思い出した。


 飾り気よりも、機能性を重視するゆえに、街そのものが無骨な外観になってしまっているのだ。




「ハイメニオス……ハイメン帝国の、都……私はペルレスで、私がここにいたのは……私は、私は……」




 ここに来るまでの間に、ガラスに反射された自分の顔を見てきた。


 まだ幼い、金色のポニーテールの少女。


 それを見た瞬間、ペルレスは強烈な違和感を覚えた。


 名前は見た瞬間に思い出した。


 街並みを見れば、この場所の名前も思い出す。


 しかし、自分の顔から蘇る記憶がない。


 そんなことがあるだろうか。


 おかしいのだが――忘れている以上は、その違和感の理由にすらたどり着けない。




「私は、誰ですか。どうしてこんな体で、こんな声で、こんな口調ですか? いや、もしかしたら名前も……本当にペルレスですか?」




 一度疑問が噴出すると止まらなくなる。


 ここまで見てきた光景以上に、自分の存在が不気味に思えてくる。


 だが、そんな彼女が目にした脅威は、その程度の恐怖を軽く上書きした。




「グオォォオオオオオンッ!」




 額から角が生えた、緑の肌の巨人が吠える。


 高さは30メートルほどだろうか。


 体は筋肉の鎧に覆われ、口には血に汚れた鋭い牙が生えている。


 口元をよく観察すると、歯と歯の間に人間の髪の毛のようなものが挟まっていた。




「ばけ……もの……」




 生身の人間が敵う相手ではない。


 記憶の有無に関係なく、本能がそう告げる。


 しかも、ハイメニオスにいるモンスターは30メートル級のオーガだけではなかった。


 スライムや、コカトリス、ケルベロス。


 大きさは10メートルから40メートルまで様々だ。


 さらには、ハイメニオスの中心地と思しき城を呑み込んでそびえ立つ、ゆうに500メートルはある巨大な大樹の姿まで見えた――


 もはやここは、人間が存在できる場所ではない。




「今は、とにかくここから逃げないとです……っ!」




 ペルレスは己への疑念を振り払い、走り出す。


 街にも、建物内で見たあの奇妙な死体が転がっていた。


 まるで何かがずれた・・・ように、断たれ、歪み、重なり、混ざった死体たちが。


 それらの傷口はまだ新鮮だった。


 血は流れ出したばかりで、鮮やかな赤を保っている。


 腐敗臭がしないのはせめてもの救いだったかもしれない。


 それでも、辛うじて生き延びた人々の放つ苦しみの声が、輪唱でもするように次々と聞こえてくるのだ。


 そしてそれらの亡骸たちを、モンスターどもが食らっていく。


 呻き。咀嚼。絶叫。咀嚼。断末魔――


 もしも地獄が存在するなら、きっとこんな場所なのだろうとペルレスは思った。


 正気の人間がいられる場所じゃない。


 あと数秒でもこれを聞き続けたら、見てしまったら、人は人の心の形を保てなくなる。


 ペルレスは両手で耳をふさいで、一心不乱に走った。




「逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ」




 手でふさぐだけでは、隙間から音が入ってきてしまう。


 だから自分で声を出してそれらを打ち消した。


 そうでなくとも、モンスターが歩くだけで地面がずしんと揺れるのだ。


 その恐怖と言ったら、一度でも足を止めたら腰が抜けて、二度と動けなくなってしまいそうなほどだ。


 必死に走る以外、できることはない。




「逃げなきゃ――あうぅっ!」




 けれど目まで閉じてしまったものだから、足元の死体に引っかかって転んでしまう。


 顔を上げると、子供の顔があった。


 しかもまだ生きている。


 童女は弱々しい声で言った。




「ママ……どこ……?」




 まだ幼く小さな顔は、女性の顔から生えて・・・いた。


 おそらく、それが彼女の母親だったのだろう――




「ひ、いいぃぃっ! いやあぁぁああああっ!」




 ペルレスは、もう叫ぶことしかできなかった。


 その声がモンスターを引き寄せるという単純なことすら考えることはできない。


 両手を振って、ひたすら走った。


 後ろから誰かが食べられるぐちゃりという音が聞こえてきたが、聞いていないことにした。


 舗装されたアスファルトの道。


 足の感覚が無くなるまでその上を走ると、そこに少しずつ土が混ざる・・・


 わずかに目を開くと、アスファルトは綺麗な四角形に切り取られて、その内側に雑草の生えた土が置かれていた。


 さらに進むと、徐々に土の割合が増えていき、両者はアスファルトのように混ざり合い、やがて比率は逆転した。


 ハイメニオスにあった近代的な建物も消え、代わりにそういった建物の一部・・が、解体工事が途中で止まったかのように地面からそそり立っている。


 法則性はない。


 間隔は極めてランダムである。


 ますますペルレスは何が起きたのかわからなくなった。


 神様の子供が粘土遊びでもして、世界をぐちゃぐちゃにしてしまったのだろうか。


 ひとまずモンスターの密度が最も高い場所は抜けたようだが、それでも危機は去っていない。


 どうすれば生き残れるのか。


 彼女は、深く考えないことを選択した。


 都の外は平野。


 だが先へ進めば森がある。


 まだモンスターが近くにいない間に、身を隠せる森に入ってしまいたい。


 再び走る。


 とはいえ、ペルレスの体は小さい。


 体力も無いため、走っても平常時の徒歩程度しか速度は出なかった。




「はぁ……ひぅ……ぅ、っく……どこか……安全な、場所……死にたくないです……っ」




 荒い呼吸で肩を上下させる。


 足はとっくに痛みを感じていないけど、肺はじくじくと痛む。


 あと少し、あと少しと自分に言い聞かせて、ひたすら足を前に進める。


 ハイメニオスを出て森にたどり着くまでの間、一度もモンスターに狙われなかったのは、奇跡と言う他ないだろう。




 そして彼女は、その後も幾度もの奇跡を重ねた。


 土地勘も知識も無いのに、森を進み、山を越えられたこと。


 その向こうに、偶然にも王国が存在していたこと。


 そして、王国までたどり着いたとき、結界に阻まれ絶望していた彼女の前に、当時の上級魔術師が現れたこと――


 確率で表せば、天文学的数字になることは間違いない。


 ペルレス自身も“出来すぎ”だと思うほどの奇跡の数々が、彼女の命を救った。




 一方で、逃げ切れずに息絶えた者だっていたはずだ。


 彼女の生存は、都合の良い奇跡ではなく――数多の失敗の中にある、唯一の成功例と考えるべきである。




 現代から100年前の、モンスターの出現。


 王国を除く全ての国家が崩壊し、人類に滅びをもたらした最悪の悲劇。


 ハイメニオスは、間違いなくその原因であった。


 しかし100年が経過した今も、失われた記憶はまったく戻っていない。


 なぜあんなことが起きたのか、理由は不明のまま。


 だが“何”が起きたのかは、ペルレスの肉体に残された手がかりによって明らかになった。




 ◇◇◇




「まず、今の私の体は自分のものではないのです」




 ペルレスがそう言うと、フィーネの眉間に皺が寄る。




「どういうこった? あんたはあんただろ」


「そうっすよ、意味がわからないっす」


「私が目を覚ましたとき、同じ部屋に女性の死体があったと話したです」


「脳が無い死体、ですよね」




 ペリアの言葉に彼女はうなずく。




「あれが元々の私の体です」


「どういう……ことっすか?」




 ウレアは首をかしげる。


 フィーネとペリアも同様に、言葉の意味が理解出来ずに疑問を抱いた。




「あの日、ハイメニオスでは“座標のずれ”とでも呼ぶべき現象が発生したです。つまり、人間の体や地形の一部だけが別の場所へと移動したです」


「それで……体が入れ替わったっすか?」


「体というよりは“脳”です」




 そう言って、ペルレスは前髪を持ち上げ額を見せた。




「薄っすらと線が入っているのが見えると思うです」


「確かに……見えるな。で、これが何なんだ?」


「証拠というには弱いですが、脳の入れ替わりによって発生した影響の一部です。私の脳は、当時一緒にいた幼い少女の頭に収まったです。そして、少女の脳は――」


「……地面に埋まっていた脳、ですか」




 うなずくペルレス。


 ペリアの表情が曇った。


 それはペルレスがハイメニオスで目を覚ましたとき、地面に埋まっており、うっかり踏んでしまった脳だ。


 それこそが本来は彼女の体に入っていたものだった。




「王国で上級魔術師になったあとに調べたですが、脳の持ち主と、体の持ち主には血縁関係があったです。たぶんこの体は……私の妹のものだと思うです」




 小さいまま成長しない己の手を見ながら、寂しげにペルレスは語る。


 幼い妹が、姉に会うために職場を訪れる――そんな微笑ましい出来事の最中に、事件は起きたのだ。


 その事実自体も悲しいことだ。


 しかし何より彼女の心を苦しめるのは、これっぽっちも、妹と過ごした記憶が蘇らないということである。




「正直、私自身も気持ち悪いと思うです。脳は私自身で、ペルレスという名前もきっと私の名前です。けど、好きなものだったり、口調だったり、そういう部分に少しずつ“混ざっている”のを感じるです」




 人の記憶は、全てが脳だけに宿るわけではない、という話がある。


 血が、内臓が、骨が、肉が、かつての持ち主のことを覚えているのだ。


 それはペルレスにとって、“異物”にほかならない。




「……すまん、ちょっと刺激が強すぎて何と言ったらいいのか私にはわからん」


「っすね……オレも、何か、気の利いたこととか言えたらいいと思うんすけど」


「心配しないでほしいです。私はもう、そのこと自体は割り切って、受け入れてるです。それより一番大事なのは、ハイメニオスで何が起きて、そんなことになったのかです」


「ペルレス様にはわかっているんですか?」


「まだ仮説ではあるですが――マニングの外に埋まっていた鉱物の存在からして、もう間違いないと思うです」




 ペルレスはいつもよりキリッとした顔で、若干の間を空けて言い放つ。




「ハイメン帝国は、200年以上先の世界から移ってきた、いわば未来人なのです」




 いささか荒唐無稽が過ぎる結論だ。


 しかし時の止まった体を持つペルレスという存在が、その言葉に説得力を与えていた。



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