第2話

 


「ちょっと、さっきから何触ってんのよ」


 力任せに周りを押し退けて振り向いた女は、範之の真っ正面に顔を据えた。


「は?」


 一度体験している範之は、前回と違って強気だった。身に覚えのないことで犯人扱いされるいわれはない。


「何よ、とぼけるつもり?」


 今回は前回の女と違って手強そうだった。だが、やってもいない痴漢を認め、穏便に済ませるために示談にする気はなかった。


 ……妻とも別れたんだ。守るものは何もない。仕事もくびになったらまた探せばいい。範之はそう考えて気を楽にした。その時だった。一瞬冷静になった範之は意外なことに気づいてハッとした。それは香水の匂いだった。


 ……前回の痴漢騒動の時もこの匂いがしていた。……左側からだ。咄嗟とっさに左を見た。だが、背を向けた女の頭の天辺しか見えなかった。


「ちょっと、聞いてるの?」


「……ああ。告訴でもなんでもしてくれ。悪いがあんた、俺のタイプじゃないし、触ろうとも思わないし」


 途端、周りから嘲笑ちょうしょうが飛び交った。


「うう……何よ、失礼な。侮辱罪ぶじょくざいで訴えてやるわ」


「その前に名誉毀損めいよきそんで訴えてやるよ」


「くうう……」


 女は悔しそうにしながらも反論できなかった。


「それから、いいことを教えてやるよ。裁判になったら、どこを触られたか、触られたとこを克明に説明しなくちゃいけない。その上、『処女ですか』とか、『最後の性行為はいつでしたか』とか、逐一ちくいち訊かれる。それでもよければ、どうぞ訴えてくださいよ。身に覚えのないことを認めるわけにはいかないからな。けど、俺が無罪になった時、あんた、世間の笑い者になるよ。会社にも彼氏にも分かっちまうんだからな」


 範之は大袈裟な言い方をした。女は悔しそうに唇を噛んで範之を睨み付けると、開いたドアから降りた。そして、左の女が降りようとドアに向いた瞬間、顔を覗こうとしたが、俯いたその顔は長い髪に隠れて見えなかった。


 長い髪に焦げ茶のコート、黒のショルダーバッグに黒いブーツ。この3点を目印に、範之は少し距離を取ると女をけた。


 

 女は西口に出ると、信号を渡った。よそ見するでもなく、早足で歩くと、次の信号を渡り、路地に入った。路地に入って間もなく、クリーム色のオフィスビルに入っていった。


 自動ドアを覗くと、エレベーターに乗り込む女が見えた。急いで中に入ると、エレベーターは、5Fで停まった。1Fに設けた郵便受けを見ると、5Fは、


〈株式会社tel・communicate〉

〈㈲優紀書房コミック天国〉

〈puzzle・circle(株)光洋出版〉


 と、あった。この中のどれかだ。


 範之は当日、体調を理由にして遅刻した上に早退すると、そのビルのドアが覗ける雑居ビルの階段の裏に隠れた。



 5時過ぎ、ドアから出てきた数名の中に、焦げ茶のコートが居た。その顔を見た途端、アッと思った。……似ていると。


 俺と同年代だろうか、女は皆と駄弁だべりながら駅のほうに向かっていた。――東武東上線で別れた女は一人、西武池袋線に向かっていた。


 女が乗った車両より一つ手前に乗ると、範之は貫通扉から女を監視した。……降りる駅は一緒のはずだ。優先席付近に腰掛けた女は、アナウンスの指示どおり携帯を開くこともせず、瞑想めいそうふけるかのように目を閉じていた。……似ている。……彼女に。


 案の定、同じ駅で降りた女はエスカレーターで上ると、定期で出た。女の出口は、範之のマンションとは逆だった。女は駅前のスーパーに入った。――レジ袋を提げて出てきた女は、駐輪場を過ぎると、信号を渡った。


 長身の範之は、女が立ち止まる度に、身を隠す場所に苦慮した。女は2本目の路地を曲がった4軒目のマンションに入った。おもむろに覗くと、女の姿はなかった。急いで中に入ると、エレベーターが2Fで停まっていた。1Fにある郵便受けの2Fには、


201山口

202MASUDA

203福井

204鮎川


 とあった。鮎川!……鮎川あゆかわめぐみに似ていると思ったが、やはりそうだ。……めぐみの姉だろうか。仮に姉だとして、同じ駅や電車を使うのはどうしてだ?ただの偶然か?……いや、偶然ではない。鮎川という女は俺を知っている。範之は直感した。だとしたら、何が目的だ?



 帰宅して、例の3社の電話番号を職業別電話帳で調べた範之は、明日、電話することにした。


 翌朝。急行・池袋行きに鮎川の姿はなかった。車両を変えたのか、1本ずらしたのか……。――昼食の時間を利用して電話をした。果たして、3番目の会社に鮎川が居た。


「はい、お電話代わりました」


「……田辺範之です」


「!……」


 その沈黙で、驚いている顔が推測でき、同時に俺の名前を知っていることも明るみになった。


「めぐみさんの件でお話が――」


「なんでしょう」


(やっぱりか、めぐみを知っていた。推察どおりだ)


「あなたの会社の近くにある、〈ボローチェ〉という喫茶店をご存じでしょうか?5時過ぎに待ってます」


「……分かったわ」


「それじゃ」


 やはり、めぐみを知っていた。たぶん、姉だろう。そして、俺を痴漢に仕立てたのもこの女だ。なぜだ?俺を陥れた理由を聞き出してやる。範之は取り調べに挑む刑事のような心境だった。

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