罠
紫 李鳥
第1話
急行・池袋行き。車内はいわゆる“すし詰め”状態だった。最初にとったポーズのままで堪える。他人の体と密着したままの、その車内の静けさには異様なものがある。咳の一つもするものなら、目の前から眉をひそめた横顔を向けられ、重心をもう一方の足に移すだけでも同じような顔をされる。
尻に触れているものが鞄の角なのか、手の甲なのか判断のつかないコートの時期。確かめるにも、手も動かせず、体の向きを変えることもできない。そのままの姿勢で、ドアが開くまでを待つ。
それは、池袋駅に到着する寸前だった。
「キャー!チカン!」
女のその声は、静寂を切り裂いた。周りの乗客が声のあったほうに一斉に顔を向けた。
そこには、今にも泣き出しそうに身を震わせる若い女が、「痴漢はこいつよ」と教えるように、30前後の会社員風の男を見上げていた。
「……いやぁ……僕じゃないですよ」
と、周りにアピールするかのように、男は大きく手を横に振った。
「……あなた以外に、後ろに男は居ないじゃないですか」
若い女は勇気を振り絞って抗議した。
「……けど、本当に僕じゃないって」
気の弱そうな男は、赤面しながら必死に否定していた。
ドア付近に立っていた男の両手は、前に提げた鞄にあった。言い逃れできない状況だった。容疑者にされた男は、一変してざわついた車内で、駅までのその屈辱感に耐えていた。
到着のアナウンスが流れ、電車が徐行すると、男は逃すまいとする乗客に取り囲まれた。そしてドアが開くと、
いつもなら足早に過ぎるホームの人達が、その車両のドア付近だけは動きがなかった。判決を知るために、遅刻を覚悟した人達が輪になっていた。真ん中には、腕を掴んで逃すまいとする若い女と、目を泳がせながら当惑する男の姿があった。
通りすがりの後方車両から降りてきた人達も、何事かと集まってきた。誰が知らせたのか、間もなく、中年の駅員が駆けつけた。
「……この人、チカンです」
若い女は、裁判官に訴えるような目を駅員に向けた。
「……僕じゃありません」
勝ち目のないことを悟ったのか、男の声には張りがなかった。
「とにかく、駅員室へ」
駅員は男の腰に手を置くと、軽く押した。「なんだよ、もう終わりかよ」野次馬らはそれぞれに不満を漏らすと、改札口に走った。
“迷惑防止条例違反”で逮捕され、勾留されたのは、
被害者が嘘をついたのか、それとも別の人間が痴漢をしたのか。検察官は被害者が主張する痴漢の事実を認めたものの、範之が無実であることもまた、確かであった。
釈放されたはいいが、会社からは解雇され、妻からは離婚を切り出された。仕方なく離婚を承諾した範之は、絶望感に打ちひしがれながらも、どうにか再就職し、別れた妻への慰謝料を払っていた。エンジニアの範之の給料は決して悪くはなかったが、慰謝料は大きな負担だった。
――あのことがあってからは、“
だが、喉元過ぎればなんとかではないが、一年近くが経った頃、気の緩みが生じた。
急行・池袋行き。車内は文字通り、すし詰め状態だった。そして範之は、あの時と同じ状況に置かれていた。唯一違うのは、目の前の女がノッポだということだった。アッと思ったが遅かった。途端、周りに聞こえるのではないかと思われるほどに、心臓がバクバクした。
移動したくても身動きが取れる状態ではなかった。
……手を上げて、つり革を持たなければ。だが、今、それをしたら、“触った”と勘違いされる。範之の脇の下からはじわっと汗が染み出していた。両サイドが女であることは間違いないが、互いに背を向けているため顔を確かめたくても、長身が
……何事も起きませんように。範之は神に祈った。ところが、意に反して、目の前の女が突然、不自然な動きをし出した。
だが、神への祈りは叶わなかった。もうすぐ池袋に着くという寸前だった。
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