第29話 エリィ・エヴァンソン
ブラックウルフとの戦闘が始まってしばらく。
雨脚は弱まることを知らず、むしろ激しさを増す一方であった。
地面はぬかるみ、視界は強い雨と
すぐ傍にいるはずのエリィも見失いそうなほどだ。
「……っ、このッ!」
千司はエリィを半ば抱きかかえるようにして、迫りくるブラックウルフ目掛けて剣を振う。だがそれも全力で振るうことは出来ない。
(さて、どうするか)
そんな状況で千司は冷静に思考を巡らせ、兎にも角にもエリィを守ることが最優先事項であると決定。
と、その隙を突いて背後から数匹のブラックウルフが気配を消して襲い掛かってくる。最初の奇襲は足音があったので察知できたが、この雨の中では音など碌に聞こえない。
数瞬ばかり反応が遅れるが、問題はない。ステータスを鑑みれば奴らの攻撃が通らないことは容易に想像が付く。服こそ破れるが、一撃ぐらいは仕方がないと身構えたところで、腕の中に居たエリィが小さく呪文を唱えた。
「『ファイア・ボール』……ッ!」
そうして生み出された火球は、夕凪飛鷹が生み出していた『フレイム・ボール』の劣化版。炎の勢いは弱く、大きさもかなり小ぶり。しかしながらブラックウルフを牽制するには充分である。
一瞬、明るく照らされた光の中、森の奥の木々に
「よくやった」
千司は手にしていた剣で背後を薙ぎ、ファイア・ボールに怯んでいたブラックウルフを切り殺す。
確かな手ごたえを感じた後、エリィを抱き寄せたまま数歩後退。周囲に生い茂る木々の一本を背に剣を構えて——小さくぼやいた。
「まずいな」
「確かにこの数は……」
「そうじゃない」
「え?」
「他の連中の姿が見えん」
言われて気付いたのか、エリィは慌てて周囲を見渡す。
しかし、そこには何も伺えない。
どこか離れたところで誰かが戦っているような気配こそ感じる物の、その姿は
「……ごめん、油断した」
「何を謝る。この乱戦に加えて視界不良なら仕方がない」
「……っ」
慰める千司に、エリィは下唇を噛みしめる。
同時に不安が襲ってきたのか、千司の服の裾をキュッと握るエリィ。
「安心しろ。何があってもエリィは守る。とにかく今はセレンたちと合流を——」
と言いかけたところで、背にしていた木の幹越しに微かな振動を感じた。それは何かが木を揺らした証拠であり——瞬間、頭上からゴブリンが奇襲を仕掛けてくる。
「……ッ」
少しばかり驚く物の、千司は冷静に迎撃。手にしていた剣でその頭蓋をかち割る。夥しい量の血液と脳漿が降り注ぐも、気にしている余裕はない。
「セレン! ロイアー! アイリーン! 聞こえるか!?」
声を張り上げてみると、遠くからセレンたちの声が聞こえた気がした。
だが場所までは分からない。雨音と戦闘音、ブラックウルフの遠吠えに、先ほど切り殺したゴブリンの仲間らしき声も聞こえてくる。
「どうする? ファイア・ボールで合図してみる?」
「落ち着け、それだとモンスターも呼び寄せる。奴らの攻撃なんぞほとんど効かないが、これ以上数が増えればエリィを守り切れない」
「ごめん。……まって、すぐ考えるから」
そう言って千司の腕の中で俯き、思考を深めるエリィ。
けれど結論を出すまでの暇をモンスターどもが与えるはずもなく。
「……っ、合流は無理だ! 今は移動するぞ!」
「あっ、わっ!?」
珍しく素っ頓狂な声を上げるエリィを抱えながら、千司は森の中を駆け抜ける。背後からはブラックウルフの足音。足元や頭上からはゴブリンや、彼らが仕掛けた罠が降り注ぐ。
千司のステータスを考慮すれば大半の攻撃は意味をなさないが……ふと、足元から地面が消えた。落とし穴である。
かなり深く、右足をすっぽりとハマり前方に大きく体制を崩した。何とか腕の中のエリィを庇いつつ抜け出そうと試みるが、その一瞬を逃すほどモンスターも馬鹿ではない。
自らのテリトリーに足を踏み入れた外敵に対して、ブラックウルフは牙を剥き、ゴブリンはナイフを構えて襲い掛かる。
「危ない……ッ! ファイア――ウィンド・スラッシュ!」
動きの止まった千司をカバーするようにエリィが魔法を行使。
火属性の攻撃を放とうとして、先ほどの忠告を思い出したのか風の刃に変更。見えない斬撃は雨粒を切り裂いてモンスターを両断するが、襲い掛かるすべてを倒せるわけではない。
風の刃を回避したブラックウルフの一体が千司の右腕に噛みつき、ゴブリンの振り上げた刃がエリィに向かう。千司は咄嗟に左掌でナイフを真正面から受け止めつつ、刃を握り潰すと、そのままゴブリンを殴打。
吹き飛ぶゴブリンを横目に、右腕に食いついていた狼を地面に叩きつけた。首の骨が折れて絶命したのを確認し、千司は力づくで足を引き抜く。
「助かった。行くぞ」
「……っ、うん」
再度エリィを抱えた千司は夜の森の中を疾走。
やがてモンスターを振り切ったところで小さな洞窟を見つけ、一息をついた。
視界不良は敵も同じだった、という事だろう。それでも一方的に場所を特定されていたのは、ブラックウルフの嗅覚が故か。ゴブリンよりも狼の方がしぶとく追いかけてきていたのがその証拠である。
洞窟内のクリアリングを終え、緊張の糸が途切れたところで千司は表情を曇らせた。
「……ッ痛」
「大丈夫?」
「あぁ、問題ない。少し刺さっただけだ」
ゴブリンのナイフを真正面から受け止めた左手のひらと、ブラックウルフが嚙みついた二の腕である。正直、痛みなどほとんどないが千司は強がっている風を装って笑みを浮かべる。
対するエリィは真剣な表情で首を横に振った。
「だめ、すぐに治療しないと。ゴブリンの短剣には毒が塗られていることがある。右腕も、ブラックウルフに噛まれたのを放置すると、腐り落ちると昔から言われている。……見せて」
「……そりゃあ怖いな」
(腐るって言うのは、雑菌とかその辺りだろうな)
毒ではなく不衛生な牙が体内に入ることで炎症を起こし、腐るなんてことは地球でもありふれたことである。
とかなんとか考えつつ、千司は左掌の傷口をエリィに見せた。
「それで、ポーションはあるのか?」
「……ごめん、全部テントの中。回復魔法も私は使えない。……だから、今はこうする」
エリィは徐に千司の掌の傷に唇をあてがうと、血を吸い出しては吐き捨てる。
「……くすぐったいな」
「……ぺっ。……我慢して」
「これぐらいなら自分でも出来そうだが……」
「経験は?」
「いや、無いな」
「なら今は任せて。素人がやると、毒を誤飲する可能性がある」
淡々と語りながらも手のひらの毒を吸い出していくエリィ。柔らかい唇が触れ、むず痒さを覚える事数回。最後に水魔法で傷口を洗うと、彼女は徐に立ち上がって自らの服の裾をちぎろうとする。
「包帯代わりなら俺の服を使え」
「そんな汚れてるのじゃダメ。私のはまだましだから……んっ」
力を入れて千切ろうとするもアニメや漫画のようにうまくはいかない。最終的にエリィは千司の剣を手に取り、自らの服を裁断。細長い布を作ると、千司の掌にくるくると巻いた。
「それじゃ、次は二の腕を見せて」
「そっちは洗うだけでいい。ブラックウルフに毒があるとは聞かないし、腐る云々は応急処置を怠った結果だろう。テントに戻ってからポーションぶっかけるよ」
「ナクラがそう言うなら……」
適当を語る千司に、エリィはしぶしぶと言った様子で頷くと、魔法で水を生み出し二の腕を洗浄。その後、先ほどと同じように服の裾を裁断して包帯を作ると、傷口を覆うようにくるくると巻いた。
結果、エリィはお腹のあたりが丸見えである。
引き締まったお腹は魔法使いとは言えさすがは冒険者というべきだろう。
「これで終わり」
「……ありがとう助かったよ。エリィは怪我してないか?」
エリィは自身の腕や足、背中をぺたぺたと触り、異常がないのを確認してから小さく頷く。
「うん、大丈夫そ――っくしゅん」
「……そう言えばずぶ濡れだったな」
くしゃみをしたエリィに視線を向けると、彼女は何とも煽情的な格好をしていた。先ほどまで寝ていたからかいつものローブは脱いでおり薄着、その衣装も雨で張り付き彼女のシルエットをくっきりと露わにしている。
加えて包帯として幾分か短くなった裾からは、臍が丸見え。
青い髪の先からは雫がぽつぽつと滴り落ち、おでこに張り付いた前髪の奥からはジトっとした視線が向けられていた。
「……変態」
「悪い。それよりどうする、このままだと風邪をひくぞ」
アシュート王国は基本的に過ごしやすい気候であるが、今は夜間で外は雨。ずぶ濡れの格好でひんやりとした洞窟内に居れば体調を崩しかねない。
「大丈夫。今魔法で火を点けるから」
「燃やせるものなどなさそうだが」
薪を拾って来ようにも外は大雨。
集めたところで燃えることはないだろう。
「数時間ぐらいなら『ファイア・ボール』を維持できると思う」
「……わかった。無理はするなよ」
「うん」
そう言って、ファイア・ボールを中空に生成するエリィ。
基本的にモンスターへと飛んでいく姿しか見ていなかったので何とも不思議な感覚である。
炎により僅かに身体は暖まる物の、それよりも濡れた衣服が体温を吸い取っていく。それはエリィも感じているのか、彼女は千司の右隣に腰掛けると、温もりを求めるように身を寄せてきた。
「寒いな」
「……うん」
「……服、脱ぐか」
「……っ、ほ、本気?」
「仕方ないだろ?」
「……それは、そうだけど」
当然のように躊躇した様子のエリィ。その視線はちらちらと千司に向けられ、目が合うと、肩をピクリと揺らして逸らされる。
そしてもじもじと足を擦り合わせること数秒。
最終的に彼女は首肯を返すのだった。
「わ、わかった。その代わり、絶対見ないで」
「あぁ」
「何かあったら、セレンに言うから」
「何もしないさ」
「……うん」
静寂に包まれる洞窟の中に、小さな息遣いと衣擦れの音が響き——千司とエリィは下着姿となる。
濡れた服はファイア・ボールの近くの岩にひっかけて乾燥。
両者は互いの姿を視界に居れないよう背中合わせで座った。
千司は洞窟の入り口を、エリィは洞窟の奥を眺める形である。
何処か気まずい空気が流れる中、千司は外の雨音を耳にしながら、徐に口を開いた。
「それにしても、エリィに怪我がなくて良かった」
「……ごめん。ずっと助けられっぱなしで」
ネガティブな言葉を口にするエリィに、千司は首を横に振る。
「そんなことはない。落とし穴に引っ掛かった時、牽制してくれただろ? 流石だな。あの咄嗟の判断は本当にありがたかった」
「……でも、その後私を助けようとしてナクラは怪我を……ほんと、本当に……っ、私はいつも……っ、いい加減自分の無能さ加減に嫌気が差す」
平素と異なる雰囲気で吐き捨てるエリィ。
それは精神的に参っていたからなのだろう。
寝ているところを叩き起こされ、突然の夜戦。視界不良の雨の中、大量のモンスターに襲われ、仲間とはぐれながらもなんとか逃げ延びた。
そうした精神的疲労が、彼女の本心を少しばかり零したのである。
故に千司は寄り添うように問いかける。
「以前、何かあったのか?」
「……っ」
「別に話したくないなら話さなくていい。でも、まだであって日も浅いが、俺はお前の仲間だ。もし何か悩んでいるのなら、助けになりたい」
「……」
緊張からの弛緩。
冷えた身体がじわじわと温まり始める中、優しい言葉がエリィの耳朶を叩く。
やがて彼女はゆっくりと息を吸い、自らの唇を動かし始めた。
「……私には幼馴染がいた。名前はイル・キャンドル。馬鹿で、弱くて、ちょっと鬱陶しいところもあるけど優しい、私の大切な幼馴染」
「……」
エリィはぼぅっと浮かぶファイア・ボールを見つめながら語る。
「イルとはずっと一緒だった。どこに行くにも一緒で、本当に、家族みたいな関係。でもある日、彼の両親がモンスターに襲われて死んだ。……別に、それ自体は珍しい事じゃない。王都みたいな大都市ならともかく、私が住んでいたような寒村ならよくある事……でもイルには病気の妹が居て、お金が必要で……それを見て、私は……私は……冒険者になって一緒に稼ごう、って、提案した」
「……そうか」
「私には自信があった。村の周りに出るモンスターを小さいころから倒していたから。だから、一緒に王都の冒険者になってお金を稼ごうって、そう言って彼を連れ出して……イルは死んじゃった」
「……」
エリィの息が上がっていくのを背中越しに感じる。
「一緒にダンジョンに潜って、はぐれて、でもすぐに見つかる、大丈夫、不安そうなイルに私は笑いかけて、もうどこにもいかないでなんて話して、ダンジョンを出れると、そう思って……でも、それきり二度と会えなくなった。強化種っていう強いモンスターに殺された」
「……」
「声を聞けなくなったし、触ることも出来ない。どれだけ一緒に居たいと思っても、もう二度と会えない……っ! 全部、全部全部私のせいで!」
「……聞いている限りそれは事故だろう。エリィのせいじゃない」
「でも、私が冒険者になろうだなんて言わなければ……ううん、そうじゃない。あの時、はぐれなければ、無責任に付き合わせたくせに、私がはぐれたから……私が自分の言葉の責任も取れない無能じゃなければ……イルはまだ生きていた!」
「……エリィ」
「ナクラにだって、そう。私は冒険者の先輩としてナクラを守らなきゃいけない。仮に先輩じゃなくても、そう頼まれて金銭を受け取っているのだから、助けなきゃいけないのに……実際は正反対! 守られて守られて、怪我まで負わせて……本当に、本当に自分自身が嫌になる……ッ!」
胸中の苦悩を吐き出すエリィを見て、千司は胸中で溜息を吐く。
(……矛盾している。自分のことを無能だなんだと言っておきながら、何でもできなければ気が済まない。それはつまり、心の奥底では自分を優秀だと思っており、現実との差に愕然としているということ)
別におかしなことではない。
何しろエリィは実際に充分以上に優秀な人間だからである。
加えて、イル・キャンドルなどという無能の面倒を常に見続けてきたせいだろう。
無能と比較し、『自分は優秀である』と思うと同時に『誰かを守らなければならない』と無意識のうちに刷り込まれていたのだろう。
故に、掛ける言葉など単純明快。
「エリィは無能じゃない」
「……いいよ、そんな慰め」
「本心だ。確かに、ここに来るまでの道中は俺が守った。だがそれは適材適所。後衛職のエリィを守るのは当然のことだ」
「でも、私はその後衛としての役割を全うできていない。援護も碌に出来ず、ナクラに怪我をさせてばかりで……」
「それは状況が状況だったからだ。この洞窟に入ってからはどうだ? 傷の応急処置をしてくれて、ファイア・ボールで身体を暖めてくれている。これはどちらも俺には出来ない」
「……」
小さく息を飲むエリィを背後に感じつつ、千司は続けた。
「確かに、一人で何でもできるに越したことは無い。でもそんな完璧な人間この世には存在しない。だからエリィも……一人で抱え込むんじゃなくて、俺を——仲間を頼って欲しい。エリィが出来ないことは俺がやる。助けて見せるから」
千司が言いきると、洞窟内には再度静寂が降りた。
外から聞こえる激しい雨音。
ファイア・ボールの明かりが千司とエリィの影を揺らめかせ——背中合わせの距離が縮まったように見えた瞬間、とんっと千司の背中に人肌が触れた。
少しずつ温まっている物の、それでもどこかひんやりとした背中越しに、互いの体温が混じり合う。
「……ほんと?」
「……あぁ」
返事をすると、徐に体重が預けられる。
「ねぇ、ナクラ。一つ頼んでもいい?」
「……なんだ?」
「実は、まだイルの妹に、彼が死んだこと伝えられてなくて……だから、その……」
「あぁ、その時は背中を押してやる」
そう言って、千司も軽く体重を預け——二人は互いを支え合う様に背中を合わせた。
「ごめん……ありがとう、ナクラ」
どこか安心したような言葉が洞窟内に響くのだった。
§
それから数時間が経過し、空が白ばみ始めた頃には雨も上がって雲の隙間から光が覗いていた。
「……そろそろセレンたちを探しに行くか」
「ん、わかった。でも夜通し魔法を使ったせいで魔力が枯渇気味だから、護衛はよろしく」
「もちろんだ。任せてくれ」
短く言葉を交わし、千司とエリィは洞窟を後にする。
結局、あの後は何事もなく、ぽつぽつと雑談している内に夜が明けた。
手を出してもよかったが、それは今ではない。
昨夜テントを張った場所からどれほど離れたのか分からないため、適当に来た方角へ向けて歩く。ぬかるんだ地面に自分たちの足跡が残っていたので追跡は容易だった。
しばらく行くと昨日切り殺したモンスターの死骸を幾つか見つけた。
「そろそろ近付いてきただろうから、ファイア・ボールを上空に放って合図を頼めるか?」
「わかった」
そう言ってなけなしの魔力を使ってファイア・ボールを放とうとするエリィ。しかし彼女は空を見上げる直前、離れた森の中——木の陰に
「……え?」
しかし、そこには鬱蒼とした森が続くのみ。
「どうかしたのか?」
「あ、あれ……? 今、あそこに
「……? 何もないが……まぁ、昨日は訳もわからず殺しまくったからな。死体の一部が飛んでそう見えたのかもしれん」
「……それもそっか。それじゃあファイア・ボールを打つから」
「了解。寄って来るモンスターの対応は任せろ」
「うん、任せた」
そうしてエリィは信頼できる仲間に笑みを浮かべ、上空へ向けて火球を放つのだった。
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