6.

 相手のために身を引く、と言えば聞こえはいいだろうが、要するに俺は逃げ出したのだった。成績優秀、品行方正、おまけに生徒会長。となればその近くにいる友人にもそれなりの能力や人格が求められると思った。


 もっとも、それが上谷にとって大きな喪失になるとも思えなかったし、俺達は互いに友人から昔の友人になるだけ。俺にとっても上谷にとっても、過去が過去になるだけ、とその程度の気持ちだった。


 上谷にしたところで、既に小学三年生のひとりぼっちの転校生ではないのだ。俺以外にも、もっといまの上谷の在り方に応じた友人がいるわけで、だとしたら俺があいつの近くにいるかどうかは関係ない、というか、既に関係ない? 別にもう、挨拶程度しかしない仲なわけだし。


 そう結論づけて、俺は上谷にまつわるあれやこれやを過去のものとして処理した。気持ちを割り切るってのは、面倒事を避けて生きる中で身につけた数少ない特技だ。


 と、思っていたんだけども。


 状況が変わった時、割り切ったはずの過去に対して、思うところが無かったわけでもなかった。

 状況が変わった、と聞いたのは生徒会選挙から一週間ほどが経過した頃だった。


「ああ、吾妻。ちょっと」


 帰りのホームルームが終わり、帰宅部のエースを自認する俺がさっさと学校を出ようと立ち上がると、担任に呼び止められた。


「なんです?」


「ちょっと生徒指導室に。ああ、心配せんでも説教の類じゃない」


 そんな、ちょっと変わった呼び出しを受けて、連れて行かれた生徒指導室で、ちょっと、いやだいぶ予想外な話を聞かされることになった。


「お前、上谷と仲良いんだって?」


「え? ……あ、ええと、はい、まぁ」


 どこから仕入れた情報なのか、つい先日過去のものとして今の自分と切り離したものに言及されて、咄嗟に言葉が細切れになる。当たり前だが、俺が自分の内側で精算したからといって過去積み上げてきたものがゼロになるわけじゃない。これからが無いだけで、これまでが無くなるわけじゃない。


 だから外から見ている他人と自分の内側に齟齬が生まれて、でも自分だけの問題じゃないから安易に否定もできない。


「ん? 違うのか?」


「や、違わない、と思います。一応、小学校からの付き合いですし」


「ああ、そう言ってたな」


 誰がだ。


「あんま隠すようなことでもないが、一応内密にな。プライベートな話だし」


「はぁ……」


 要領を得ない担任の前置きに曖昧に頷く。ここまでの流れからして上谷に関係あるんだろうな、とは思ったが、それ以上は何の予想もできない。


「上谷だが、あいつ生徒会長になったろ」


「そですね」


「それで、まぁちょっと、クラスの連中と折り合いが悪いみたいでな」


「はぁ、え、どういう?」


 なにがそれで、なのか。生徒会長になったことと、クラスメイトとの衝突の結びつきがわからなくて聞き返した。


 聞かされたことをまとめると、生徒会長としてクラスメイトのうちの、ちょっと素行の悪い連中を注意したら「会長になったからってチョーシのってんじゃねーよ」と反発を食らった、という話だった。で、それ以降クラスで微妙な立場にある、と。


「いじめとかには発展してない、と少なくとも上谷本人は言ってたんだが。会長になったばかりでそんなことになったのが、結構堪えてるみたいでな」


 容易に想像できた。上谷は生真面目だから、降り掛かってきたものを全部正面から受け止めるところがある。その実直さは普通なら美点だが、俺に言わせれば酷い悪癖だ。自分に降りかかる全てに誠実に対応しようなんて、面の皮が一体何枚重なっていれば耐えられるというのか。


「まぁ、あいつらしいといえば、らしい状況ですね」


「ほー?」


 担任に探るような目で見られて、少し落ち着かない。


「その様子だと上谷の言う通りみたいだな」


「はい?」


「生徒会顧問とはいえ、俺は先生なんでな。もっと身近な相談相手、というかまぁ、愚痴の放出先はないかと聞いてみたんだ」


 身も蓋もない考え方だが、身も蓋もないからこそ納得できる。教師というのはもっと人間関係に器用な人間がなるものだと思っていたけど、なかなかどうして、この担任の考え方は俺と似ている気がした。


 まぁこんな話をする機会でもなければ、それに気づくこともなかったんだろうな。


「こういうことを相談できるのは吾妻だけ、だそうだ」


「……へぇっ?」


 気管に金平糖を突っ込まれたみたいな、小粒に息詰まった声が出た。


 精算したはずの過去。過去であって今ではないと思っていたものが、突如として目の前に現れる。過ぎ去ったものとして処理したはずのものが、不意打ちのように未来への展望を開こうとする。


 それが思いの外大きな衝撃となって、俺を貫いたのだった。


 過去ではないことが、嬉しい。とっくに無くなったと思っていたものが、まだ形を残していたことが愉快で、不覚にも興奮に心臓が鳴るのを感じた。

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