8.

「…………」


 飛鳥は声にこそ出さなかったけど、視線をこちらに向けないまま、小さく顎を引いた。それを了承と受け取って、私は話し始めた。


 最初は飛鳥を苦手なタイプだと鬱陶しがっていたこと。本当は私は勉強が得意なわけではなく、不安から逃避していただけだったこと。飛鳥と一緒にいたのは、自分の優秀さを確かめたかったからだということ。飛鳥の容姿に嫉妬したこと。飛鳥の朗らかな人柄に嫉妬したこと。飛鳥の陸上の才能に嫉妬したこと。飛鳥の成績がよくなったことを決して喜んでいなかったこと。それから――。


「これは本当に、今日になってようやく気づいたんだけどね」


「……?」


「私、あんたのこと大好きだったみたい」


「へぁ」


 ずっと神妙な顔で話を聞いていた飛鳥が、強張っていた顔の筋肉が一気に弛緩したみたいなゆるい声を漏らした。


「なんて声出してんの」


「だ、って、先輩が変なこと、言うから」


 不意打ちがよっぽど堪えたのか、たどたどしい物言いで反論してくる。今の私は、そんな彼女を素直に可愛いと思えるのだった。


「私さ、ずっと自分の中にあるあんたへの気持ちは嫉妬なんだって思ってた。だから昨日も、私なんかのためにああやって立ち向かう飛鳥を見て、ああこの子はなんてスゴいんだろうって思ったし、それに比べて私はなんて情けないんだろうとも思った」


 同級生の嫌味に一言も言い返せないばかりか後輩の女の子に庇ってもらうなんて、情けないにもほどがある。先輩の威厳はおろか、人として最低限のプライドも粉々だ。


「惨めだったんだ。今までは飛鳥と図書室で勉強する時しか会わなかったでしょ? それは多分、それ以外の場所であんたと一緒にいたら、自分がどんどん惨めになっていくだろうと思ってたから。勉強っていう、唯一あんたに勝てるフィールドから出るのが怖かったんだよ」


 本当に、我がことながらなんとも器の小さい人間だ。


「失望させたかな。だとしたらごめんね。でも、これが私のほんとの気持ちだから」


「……まだ、です」


「ん?」


「まだ、全部聞いてないです。私のことを、す、好きだって、こととか」


 好きの部分で声が震えていた。飛鳥は飛鳥で、この雰囲気に緊張しているのかもしれない。改まった話は苦手そうだし。


「それについては、んん、どう言ったらいいのか、難しいな」


 嫉妬や劣等感は、私が長く付き合ってきた感情だから、言葉に直すのも比較的簡単だったけど。誰かに向ける好意なんて、私が久しく感じていなかったものだ。まして今日気づいたばかりとあっては、どう言葉を選べば正しく伝わるのか非常に難しい。それでも、なるべく簡潔に言うのならば。


「惜しい、と思ったんだよ」


「おしい?」


「そう。昨日のことがあって、今日になって、それで、もうあんたと顔を合わせないのかなーって思ったら、それは惜しいなって思った。会いたいし、話したいって思った。だから私は、あんたのことが結構好きなんだなーって」


 気恥ずかしさを誤魔化すように少し早口で、ちょっとだけ他人事みたいに話す。好きという言葉は口にするのもされるのも不慣れで、私が口にするそれはちょっと軽薄な響きだったかもしれない。言葉と感情はイコールではないから、私が声に出した「好き」とこの胸にある「好き」は少し違っている。その差を埋められないのがもどかしかった。


「先輩は」


「ん?」


「先輩はいま、好きな人っていますか?」


 前にも同じ質問をされたな、と思う。その時にはなんと答えたのだったか、もう覚えていない。大方やっかみ混じりにそんなものいないと吐き捨てたんだろうけど。私というのはそういうヤツだ。


 ここで飛鳥が好きだよ、と言うのは多分違うんだろう。私が口にした「好き」と、飛鳥が求めている「好き」の違いをここに至ってはっきりと感じる。なるほどイヅナの目はなかなか慧眼だったわけだ。私たちは女の子同士だし、恋人でもないし、私は恋をしていなかったけれど。飛鳥の方は「そう」だったのだろう。おそらくずっと前から、もしかしたら最初から。


「いないよ。今までいたこともない」


 嘘はつかない。私は恋をしていないし、したことがない。飛鳥のことは好きだけれど、こうして見つめ合っても胸は高鳴らない。私はまだ、恋をしていない。


「あんたは?」


 こんな風に尋ねるのは卑怯かもしれないな、と思いながらも。私は質問をした本人にその矛先を向ける。


 答える必要はない。私もいませんよ、と嘘をついたとしても私に飛鳥を責める権利はない。でも飛鳥は本当のことを言うだろう。根拠はないけど私はそう確信していた。


「私、私は」


 こくっ、と飛鳥の喉が鳴る。飲み込んだのは唾かもしれないし、嗚咽かもしれない。


「私は、明日香先輩が、好きです」


 絞り出すように、飛鳥が言う。もはや疑いようのないほどに決定的な言葉を口にする。その勇気が私には眩しい。言うべきことを言う。その点でもやはり飛鳥は私より優れている。私のように遠回りな言葉を並べ立てなくても、ただ一言好きと口にするだけでこんなにも私を揺さぶってくる。


「ずっと、好きでした。初めて図書室で勉強を教えてもらった時から、ずっと」


 去年のことだと言っていた、私が覚えてさえいない過去。きっと私が気まぐれで手を貸しただけのちょっとした時間。それをこんなに大事にしてくれる人がいたなんて、思いもしなかった。


「……ごめんね」


 それほどの気持ちに気づかなかったこと。それほどの気持ちを聞いてなお応えてあげられないこと。そんな気持ちを抱えた彼女を突き放してしまったこと。


 私が、飛鳥に恋をしていないこと。


 私の口から出た何度目かわからない謝罪の言葉に、飛鳥は力なく首を振る。


「謝らないでください。私、言えてよかったです。伝えないまま先輩とお別れするより、この方がずっとよかったと思います」


「……ん、お別れ?」


 思わず神妙な空気も忘れて聞き返してしまった。この流れってあれじゃないの、お互い隠してた気持ちをぶつけ合って本当に仲良くなるみたいな……え、違ったの?


「えっと、ごめん飛鳥。私やっぱり、あんたに嫌われちゃった、かな?」


 嫌われても仕方ない、失望されて当然、と最初は思っていたけど、いざ話してみれば飛鳥からそんな感じはしなくて、だから私はまだ飛鳥と一緒にいられると安堵していた、のだけど。


「嫌いになんてなりません! 私、いまはもっと先輩のこと大好きです!」


 ぐわっ、と前のめりに宣言される。好き、という言葉に込められた重みが私と飛鳥ではだいぶ違うなぁ、これが込められた実感の差かなぁ、と余計なことが頭をよぎった。


「でも、これ以上明日香先輩を傷つけたく、ないので」


 ああ、安心した。嫌われたわけでも、離れたいと思われたわけでもないのなら、こちらも遠慮せずに言うことが出来る。私が本当に飛鳥に言いたかったことを。


「ね、飛鳥」


「……はい」


「私、さっきこう言ったつもりなんだけど。これからも一緒に……じゃないな、これからはもっと一緒にいたいって」


 好きだということ、別れを惜しんだということ。それは私としては精一杯の、これからへの想いだったのだけど。ちょっと遠回しが過ぎただろうか。でもだってあんまりハッキリ言うのは恥ずかしいし。


「でも、私の気持ちは、きっと先輩には迷惑だし」


「迷惑じゃない。嬉しい」


「そんなの、嘘で」


「嘘じゃない、嬉しい」


 私の力押しの説得に目を白黒させて狼狽える飛鳥の頭を胸元に抱え込むように抱きしめる。そういえば胸はわたしのほうが大きい。飛鳥はスタイルがいいから胸が小さいのもむしろ美しくてちっとも勝った気がしないけど、抱き心地と抱かれ心地は私のほうがいいはずだ。


「むぐ、せんぱ、んむ!」


 慌てて身を引こうとする飛鳥の頭をぎゅっと抱え直す。顔を見ながらだと、恥ずかしくて言葉が滑ってしまいそうだから。


「好きな人に、好きだって言ってもらえるのは嬉しいよ。それはもしかしたら、あんたにとっては辛いのかもしれないけど、私は嬉しい。ほんとに」


 飛鳥の抵抗がやんだ。ふもふもと飛鳥の吐く息が制服の胸元を湿らせる。


「私は今でもあんたが妬ましいし、羨ましい。一緒にいて、惨めな思いをすることもあるかもしれない。でも、そのことと、あんたを好きだって気持ちは別なの。だから一緒にいて欲しい気持ちは変わらないよ」


 それから、と続けて口にしようとした言葉を、ちょっとだけ躊躇う。これを言うってことは私もいよいよ覚悟を決めなくちゃいけない。何の覚悟かよくわからないけれど、これを伝えれば、伝える前の私たちには戻れない、それくらい決定的な言葉だ。


 でも、言わないなんて選択肢はない。イヅナは私に「好きな人がいる」と微笑んで、飛鳥は私に「好きだ」と目を見て伝えてくれた。その勇気に報いなければ、今度こそ私は惨めさに押しつぶされそうだ。


 胸に抱いた飛鳥を解放して、正面から向き合う。いつもは日焼け色の肌が真っ赤に染まったその顔を見つめて私は言うのだ。一緒にいたいという気持ちの、その先に予感するものを。


「私はね、飛鳥に恋をしたいんだ」

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