第五話 髪を梳かす

 朝起きて、髪を結ぶこともせずに開いた窓からぼんやりと外を眺めていたら、シルが動き出した。

 シルはぼんやりとしたままぱたぱたと布団の上で手を動かして、それから起き上がって部屋の中を見回した。そして、俺を見付ける。


「おはよう」


 声をかければ、シルはぼんやりしたままこくりと頷いた。


 俺は荷物から櫛と森の飾りオール・アクィトを出してシルの隣に膝をつく。そして、シルの髪をかし始めた。長い銀色の、透き通るような髪に櫛の歯を通して、いつものように耳の脇に森の飾りオール・アクィトを編み込む。

 シルはその間ぼんやりと大人しくしていたけど、二つの森の飾りオール・アクィトの編み込みが終わると、急に櫛を持っている俺の手に両手を重ねた。


「わたしも。ユーヤの髪、やりたい」


 俺は瞬きをしてシルを見る。思いがけずはっきりとした視線で、シルが俺を見ていた。

 これまで、シルの髪は毎朝梳かして編み込んで、夜には編み込みを解いて梳かしてとやっていたけど、自分の髪は適当にしていた。櫛を使わずに手櫛だけで済ませてることも多い。

 だから別に、やってもらうほどのことでもないんだけど──でもきっと、シルはやりたいんだろうなと思って、俺は櫛を握っていた手を開く。


「じゃあ、お願い」


 シルは嬉しそうに櫛を持って、それから持ち手を飾っている貝殻真珠ボックニィズ・ミジャアを指先で撫でた。


 敷物の上にあぐらをかいている俺の後ろから、シルが俺の髪に櫛を当てる。その感触に、思わず声を上げる。


「もうちょっと、そっと……強く当たると痛いから」

「わかった」


 俺の声に、シルはどうやら大人しく頷いてくれたらしい。頭に刺さりそうだった櫛の歯が、少し離れる。櫛はそのまま大胆に動いて──つきんと引っ張られた後に、ぷちりと音がした。絡んだ髪が抜けたらしい。

 眉を寄せてそのちょっとした痛みをこらえて、シルに声をかける。


「引っかかる時は、無理に引っ張らなくて良いよ。その、もうちょっと、そっと……痛いから」

「ユーヤ、痛いの?」

「髪の毛が引っ張られると、ちょっとね」


 櫛が、俺の頭から離れる。少しの間を置いてから、シルが困ったような声を出した。


「ユーヤがしてくれる時は、いつも痛くないのに」

「なら良かった。もうちょっとそっとすれば大丈夫だから」

「難しい」


 俺は振り返って、膝立ちになっているシルの顔を見上げる。シルは眉を寄せて、唇を尖らせて──そんなに泣きそうな顔をするほどのことじゃないって言っても、大丈夫だろうか。

 俺はシルの手から櫛を取り上げて、歯に絡んだ髪を引っ張って取り除く。指先で歯の表面を撫でてから、またシルの手に櫛を握らせた。


「シルが、梳かしてくれるんだよね。お願い」

「でも、ユーヤ痛いんでしょ」

「ゆっくりやれば大丈夫だから」


 シルはまだ不安そうな顔で、それでもこくりと頷いた。

 俺がまた前を向くと、後頭部に櫛の歯が当たる。ぎゅっと押し付けられて、それから少し離れて、それを何度も繰り返す。どうやら力加減を調節してるみたいだったから、俺も大人しくされるがままになっていた。


 髪を梳かすのにとても時間がかかったのだけど、別に急ぎの用事があるわけじゃないし、何よりシルが満足そうに笑っていたので、まあ良いかと思ったりした。

 髪をまとめて森の飾りオール・アクィトで結ぶのは、シルには難しかったみたいで、それは自分でやった。なんだか自分の髪がいつもよりさらさらと触り心地が良いような気がして、嬉しいような、気恥ずかしいような。

 結び終わって頭を振れば、森の飾りオール・アクィトの小さな牙の飾りがぶつかりあってかちかちと鳴った。




 並ぶ露店を見ながら、湖岸沿いの道を歩く。昼間だから当たり前だろうけど道ゆく人は提灯クンバウを持ってなくて、明るい日差しで見る露店は夜とは雰囲気が違って見える。

 まだ意味がよくわからない言葉のざわめきも、夜はどこか不思議に聞こえたけど、明るい中だとただ賑やかで楽しそうに聞こえる。良いにおいは相変わらずで、朝の支度に時間がかかったものだから余計に空腹を刺激される。

 いや、でも、ナングスの朝ご飯はもっと待ったな、なんて思い出したりもする。

 夜に真っ暗だった湖面は、今はうっすらと緑がかった青い色で、そこに白い波がざわざわと揺れて、消えて、また現れる。大きな船が、どこかへ向かって滑るように進んでゆくのが見えた。大きな湖の向こう岸に行くのかもしれない。


 露店は食べ物だけじゃなくて、日用品ぽいものや、雑貨っぽいもの、何に使うのかわからないものなんかも並んでいた。夜の間は食べ物しか気にしてなかったと思いながら、様々な物が並んでいる店先も眺めたりする。

 ふと足を止めた店先には、装飾品らしきものが並んでいた。ネックレスらしきもの、小さなビーズのような石を魚だとか鳥の形に並べたもの──これは、髪の毛に止めるのか服に止めるのかわからない。それとも、もっと別の使い方があるのかもしれない。

 そんな、装飾品の中に、白い丸い石が並べられていた。その石の表面に絵が掘られて、その線に黒い色が付けられている。絵は何種類かあって、その中の一つに描かれていたのは、カエルのような生き物だった。

 それを見て、ふと、ここにはバツ印を辿って来たんだってことを思い出した。

 ナングスのナガの話を聞いて、バツ印はドラゴンだけじゃなくて大きな生き物に関係しているんじゃないかってことを考えていた。そして、その大きな生き物のことは、それぞれの地域で、何かの形で残っていた。

 ニッシ・メ・ラーゴのドラゴンラーゴの絵だったり、アズムル・クビーラのドラゴンクビーラアーズムだったり、ウリングモラ・ナングスのナーガの話だったり。それなら、このバイグォ・ハサムにも、何かが残っているんじゃないだろうか。

 最初は、バツ印はドラゴンの手がかりかも、その場所に行けば何かわかるかも、なんて考えていた。でも多分、そんなにわかりやすい話じゃないんだと思う。

 並んでいる品物を興味深そうに眺めているシルの横顔をそっと見る。


 そもそも、何もかも、何もわからないままだった。

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