第二話 くすぐったい

 大雨ダングラがやむ頃にはみんな起き出す。ウリングラスもウリングモラも湿度が高くて蒸し暑いけれど、雨上がりの朝は少し涼しく感じる。


 そういえば、ウリングラスで草履のようなものをもらった。パトゥという名前で、何かの植物を編んだ、厚みのある布だ。足首に結んで足の甲に紐を通して履く。

 ウリングラスでもウリングモラでも、それを履いている人もいるし、履いてなくて裸足の人もいる。

 ざらりとした感触が足の裏に当たるので、なんだかむずむずするような気がして落ち着かないけど、「危ないムッバニ」と言われたので、足を保護する目的のものなんだろうなと納得した。だから、大人しく履くことにしている。

 家を出て、まだ湿った木の板に座って、パトゥを履く。シルはやっぱり自分で結べないので、シルの足にも履かせる。

 シルはパトゥの感触が気になるのか、履くといつも落ち着かない感じになる。だから、結んでいる間も、ちっともじっとしない。シルの爪先がぎゅっと縮こまったり、不意にびくりと動いたりする。


「シル、もうちょっとだけじっとしてて」


 片足が終わってもう片足と布を引っ張ったけど、布が足ごとするりと逃げてしまう。手を伸ばしてそれを捕まえて、シルの足ごと引き寄せる。


「だって、これ、なんか変な感じ」

「くすぐったいと思うけど、我慢して」


 結びながら、何気なくそう言ったら、シルはぴたりと動きを止めた。俺も手を止めてシルを見る。シルはぼんやりとした顔で、俺の言葉を繰り返す。


「くすぐったい……」


 大人しくしている間に、と俺は結ぶのを再開する。踵を覆って、足首をぐるっとして手前で結ぶ。指の付け根辺りに付いている紐を足の甲で結んで、爪先に付いている紐を指の間に通して、足の甲で結んだ紐をぐるりとくぐらせて、足首の結び目に留める。

 結び終わったところで、シルが急に足を引っ込める。膝を立てて、それを抱えるように両腕を回して、そして指先で足の結び目に触れる。


「くすぐったい!」


 そう言って、シルは俺を見て、笑った。


「ねえ、ユーヤ、これ、くすぐったい」


 なんだかわからなかったけど、くすぐったいと言う割に、シルは楽しそうだった。俺も笑って答える。


「そうだね。俺もくすぐったい、これ履くと」


 俺の言葉に、シルは面白そうに目を細めた。「くすぐったい」という言葉が気に入ったのか、なんだか機嫌が良さそうで、ほっとする。

 立ち上がって、シルに手を差し伸べる。俺の手を掴んで、シルも立ち上がる。

 数歩離れたところで、ウワドゥさんが俺とシルを見下ろしていた。ウワドゥさんは笑っていて──その表情の中に呆れたような色というか、「やっと終わったか」みたいな気持ちを見出してしまうのは、俺の考え過ぎな気もする。


来るダイ


 ウワドゥさんの呼びかけに、シルと手を繋いだまま歩き出した。




 湿った木の板を踏んで歩く。森の中は、結晶化した葉っぱマティワニが鳴らす風鈴のような音が響いている。それと、ウリングモラの人たちが笑ったり喋ったりする声。

 やがて木の板が途切れて、海面から少し覗く木の根っこを渡り歩くことになる。根っこは大きく波打ちながら、海面から出たり引っ込んだりしている。それほど太くないし平らでもないので、安定した木の板に比べるととても歩きにくい。


 初めてウリングモラに辿り着いたとき、俺は見事に足を踏み外して海に落ちた。浅瀬なので溺れたりはしなかったし、木の根っこで怪我をするようなこともなかったけど、塩っ辛い水で盛大に濡れてしまった。

 言い訳をするなら、あの時は大雨ダングラが近いと言われて焦っていたせいだった。


 シルは身軽に、跳ねるように、危なげもなく木の根っこを渡る。そして、俺を振り返っては心配そうに手を差し出してくれるけど、手を繋ぐとかえって危ない気がして、それに何かあった時にシルを巻き込むだろうから、俺はシルに「大丈夫」と言って、一人で次の根っこへと飛び移った。

 落ち着いて進めば、俺だって落ちなくて済む。無事に砂浜まで渡りきってほっと息を吐くと、ウリングモラの人が何人か、わっと声を上げて祝福してくれた。

 どうやら「海に落ちた人がまた海を渡っている」から、また落ちるんじゃないかと見守っててくれていたらしい。優しさがありがたいけど、この状況はかえって気恥ずかしい。そんなに大騒ぎされるほどのことじゃないと思うんだけど。


 ウワドゥさんが笑いながら近付いてきて、俺の頭をぐしゃっと掻き混ぜた。


「アーヤ・アーヤ」


 明るい声でそんなふうに言ってから、俺の頭を解放する。「アーヤ」というのは、タザーヘル・ガニュンの言葉で──正確な意味は知らないけど、誰かが何か働いた後によく聞いた言葉だった。お礼クランジランとも少し違うその言葉の意味を、俺はねぎらいだと理解している。

 何か働いた人に向けて「お疲れ様」というような。だから俺は、その「アーヤ」という言葉と、俺の髪を掻き混ぜるウワドゥさんの大きな手を、少しくすぐったい気持ちで受け止める。


 ウワドゥさんの語気は強くて時々怒られている気分になるし、今みたいに頭をわしゃわしゃとされたり、背中を軽く叩かれたりすることもある。言葉の通じなさもあって距離感が難しくて戸惑うことも多いけど、あまり嫌な気分にはならないでいる。

 それはきっと、ウワドゥさんが本当に、俺とシルを気遣ってくれてるからだと思う。


 俺より少し先に渡り終えていたシルが、俺の手をぎゅっと握る。そして、そのアイスブルーの瞳が、まっすぐに俺を見る。


「ユーヤのこと、わたしが助けるからね」


 すごく真面目に、シルはそう言っている。シルがなんで突然そんなことを言い出したのかはわからなくて、でも、シルだって俺のことを心配したり気遣ったりしてくれているんだってことはわかる。


「えっと……ありがとう」


 本当はもっと、いろんなことを言いたかったのに、うまく言葉にできなかった。だから、シルに伝えられたのはたった一言。

 それでもシルは、嬉しそうに、くすぐったそうに目を細めた。本当にくすぐったい気持ちでいたのは、俺の方だったけれど。

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