第31話 白山菊理は世界を見限る

 重さにして3キロくらいはあるだろう。


 赤い円筒状の鉄でできた塊が放物線を描きながら中水美衣奈へ向けて飛んでいく。


 それだけの重量があり、かつ十分な硬さがある代物が当たればただではすまないだろう。


「うあっ」


 骨と鉄のぶつかるゴッという生々しい音がして、中水美衣奈は苦悶の声をあげる。


 ただ、声がするという事は、まだ彼女が生きているということ。


「っつー……」


 そして、響遊の目論見が失敗したということ。


 彼がこの後どんな目に合うかは、彼自身が一番よく分かっていた。


「響さぁ……」


 一歩、響遊が後退あとじさる。


「アンタも死にたいんだ」


「い、いえ……」


 一歩、横に移動する。


「だってそうでしょ? こんなモノひとに投げつけてさぁ」


「そ、それは……」


「当たり所が悪ければ大怪我じゃすまないよねぇ!」


 中水美衣奈のボルテージが、だんだんとあがっていく。


 それに伴って声には怒気が殺意が、籠められていった。


「死んでたかもしれないんだけどさぁ! 私が何しても正当防衛だよねぇ!?」


「…………」


 響遊は恐怖で体をガタガタと震わせている。


 その姿はまさに蛇に睨まれた蛙といったところだ。


 今この瞬間、この場に置いて頂点捕食者である中水美衣奈に何故歯向かったのか。


 こうなることは分かっていたはずなのに。


「許せるはずないよねぇ! 許すわけないよねぇ! ねえっ!」


 中水美衣奈は声を荒らげ響遊に当たり散らしながら私の前に出る。


 彼女の顔は一度も見えなかったが、どれだけ彼女が怒り狂っているかは想像にかたくなかった。


「おい、響ぃ!」


 中水美衣奈が右手を振り上げる。


 彼女の手には、上良栄治の命を奪った血まみれの包丁が握られていた。


「分かってんだろうなぁっ!」


「ひっ」


 引きつった顔で、響遊がまた一歩さがる。


 じりじりと、少しずつ中水美衣奈から遠ざかろうとして……。


「お望み通りぶっ殺してやるよぉっ!」


 それ以上の速度で近づかれてしまう。


「ま――っ。あっ!」


 結局、響遊は怒気に圧し負け、足をもつれさせて転倒してしまった。


「ご、ごめっ」


 もはや立ち上がる力もないのだろう。


 床に手をついて、臀部をずりずりとすりつけながら、懸命に、少しでも距離を取ろうとする。


 だが――


「謝るなら始めからすんじゃねえよっ」


 無情にも中水美衣奈はそう吐き捨てると、包丁を逆手に構えて突進した。


 響遊の上にのしかかり、左手で首根っこを押さえつける。


「やめ、待――っ」


「るっせぇ!」


 響遊が必死になって左手を振り回し、なんとか刺されないように抵抗するが、それが上手くいくとは到底思えなかった。


 なぜなら最初から気迫がち――。


「――――っ」


 一瞬だけ垣間見えた響遊の瞳。


 違う。


 追い詰められた人の目じゃない。


 私とは違うから分かる。


 今日一日で何度も見たことがあるから分かる。


 人を殺す人の目だ。


「暴れんじゃねぇっ!」


 包丁の切っ先が、抵抗を続ける響遊の左腕を浅く切り裂く。


 きっと、中水美衣奈は思っているだろう。


 自分は一方的に殺す立場であり、響遊は自分によって殺される存在なのだと。


 だから――


「さっさと死ねよぉっ!」


 ――気づかない。


「君がね」


 氷水を背筋に差し込まれたと思うほど、冷たい言葉。


 それと共に、地面に転がっていたはずの鉈が、獲物を求めてギラリと光を放つ。


 響遊は責められていたからあれほど震えていたのではなかった。


 頭の中にある天秤の片方に自分の奴隷としての未来を置き、その反対側に中水美衣奈の命を置いていたのだ。


 そして、響遊は決めてしまった。


 冷徹に。


 冷静に。


 中水美衣奈を殺すことを。


 彼女の口を未来永劫ふさぐことを。


「――え?」


 日常ならば、喧噪に紛れて消えてしまいそうなほど小さな呟き。


 きっと、それほど意外だったのだろう。


 自分に逆らう人が居るなんてことが。


 斜め下から拾いざまに振るわれた鉈が、中水美衣奈の側頭部に食らいつく。


 既に海星さんの命を喰らったのにも関わらず、まだ足りなかったと言わんばかりに長方形の刃は骨を噛み砕いていき、その奥にある命を司るモノをぐちゃぐちゃに叩き潰す。


 中水美衣奈の最期は、そんな、あっけない幕切れだった。


「ハッ……ハァ~ッ……」


 響遊が深く息をつくと、まるでそれが合図であったかのように中水美衣奈の体が背中からくずおれる。


 床と頭に刺さった鉈がぶつかり重い金属音を響かせた後で、今度は生身の頭部が床と交わり、ドッという鈍い音がした。


「……君が言ったんですよ。今なら殺せるって、バレないって」


 頭の左側に鉈を生やしているため、中水美衣奈の顔がちょうど私の方を向く。


 その顔には私の予想していた通りの表情が浮かんでおり、自分が殺される恐怖や悲哀といった感情はかけらも見当たらなかった。


 きっと彼女は最期の時まで自分がなぜ殺されたのかを理解していなかったに違いない。


 そういう意味では幸せだっただろう。


「…………」


 響遊が、まるで能面のように無機質な顔をゆっくりとあげる。


 そして、目だけがついっと動いて私を映した。


「白山、さん」


 響遊が死体を押しのけ立ち上がる。


 その間も、視線は私に固定したままだ。


「見てましたよね? 僕が襲われたのを」


「…………」


 確かに見ていた。


 響遊が中水美衣奈を挑発して誘い、返り討ちにするところを、私ははっきりと見て、細部にわたるまで記憶していた。


「見てましたよね?」


 語気が、強まる。


「正当防衛の証言をしてもらってもいいですよね?」


「…………」


 私はなにも返さない。


 だって、そんなこと私にはどうでもいいことだから。


 先にしかけた響遊が、本当に正当防衛かなんて、これっぽっちも私には興味がなかった。


 どうにでもなってしまえばいい。


 私も、それ以外も。


「僕は、正当防衛です。そうでしょう?」


「…………」


「聞いていますかっ?」


 響遊の声もだんだん怒気を帯びていく。


 私がなにも言わないから焦っているのだ。


 響遊は、なにがなんでも無罪にならなければならない。


 でも彼は自分が無罪でないことを、自分自身が一番よく知っている。


 きちんと彼の望む通りに証言するか分からない私はリスクでしかない。


 ふと、このまま黙っていたらどうなるのか、なんてことに思い至る。


 彼は言っていた。


 今殺せばバレない、と。


 もし今、私に向けてもそう考えているのなら、私のことを殺してくれるだろうか。


「…………」


 迷惑なことをしている自覚はあったが、私は響遊の言葉に一切返答せず、反応もみせなかった。


 そもそも何かをしようと思う気力が枯渇していたので、指一本自分の意思で動かすことすらできなかったのだけれど。


「白山さんっ」


 響遊が死体に突き刺さっている鉈に手をかける。


 少し力を入れて引っ張ったみたいだが、中水美衣奈の頭蓋骨が刃をしっかりと噛んでいるのか、頭ごと揺れるだけで鉈が抜ける気配すらない。


 舌打ちをひとつした後、響遊は中水美衣奈の死体を足で踏んで固定し、両手を鉈の柄にかけ力の限り引っ張った。


 バキッと骨が音を立てて砕け――きっと、彼は安直な行動を取った自分を呪ったことだろう。


 私だって、この二本の足が私の言う事を聞いてくれたのなら、絶対に逃げ出したはずだ。


「うっ」


 響遊が顔をしかめ、鼻に手をやった。


 それに一歩遅れて私のところにもむわりと生温かい臭いの塊とも言うべき何かが到達する。


 臭いの元は、中水美衣奈。


 その中身、だ。


 頭蓋骨と食い込んだ鉈は、中身がこぼれない様、蓋の役割も果たしていた。


 それが無くなれば、どうなるか。


 具体的な名称は思い浮かべたくもない。


 茶色の塊が、べちゃりと、あふれ出してくる。


 それには赤黒いひも状の物体も付随していて、更にそのひもの先には別の茶色い物体や、白い繊維状のものなどが連なっていた。


「うぉぇっ」


 目を背けたくなるほど凄惨な光景だったが、今の私にはそれもできない。


 響遊は間近で見てその衝撃に耐えられなかったのか、横を向いて胃の中の物をぶちまけてしまった。


「くそっくそっ……なんで僕がこんな……おえぇっ」


 悪態をつきながら、その合間に嘔吐を繰り返す。


 彼の心は、もうズタズタだろう。


 だから……より、正常な判断が出来ない状態になってしまっていた。


 口元を拳で拭い、血走った眼を私へと向ける。


「お前がっ!」


 あまりにも理不尽な物言いだったが、私に不満をぶつけることで、不安定になった精神を立て直そうとしているのかもしれなかった。


「お前が早く答えなかったから……!」


 響遊は私の正面に立つと、鉈の切っ先を突きつけてくる。


 それで私に何をするつもりなのか。


 本当に私を害するつもりなのだろうか。


 危機を前にして、それでも私の心は動かなかった。


 しかし――


「や、止めなさいっ! 今すぐ武器を捨ててっ!」


 私たちは大切なことを忘れていた。


 上良栄治の作り出した『密室』は、時間制限があったことを。

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