第30話 白山菊理は傍観する

 いきなり中水美衣奈に襲われるとは予想していなかったのだろう。


 崎代咲綾の体が前に倒れ――いや、腹部を思い切り強打されたことで、自ら前のめりになっていた。


 そのすぐ傍には、赤黒い殺意に染まったナイフが一本。


 ああ、納得した。


 彼女は許してはいなかったのだ。


 私を連れて来させた目的は、私を殺すことが一番の理由じゃあなかったのだ。


 復讐……は少し語弊があるだろう。


 彼女がしたかったのは――処刑。


「クハッ」


 中水美衣奈の口からまろび出た失笑が、私の予想を肯定する。


 彼女はもう殺人鬼になってしまっていた。


 しかも、夜見坂くんと同じ、殺人を心から楽しむタイプの殺人鬼に。


「――っ」


 崎代咲綾もそのことに気づいたのだろう。


 声にならない悲鳴をあげ、必死に体をよじってナイフから遠ざかろうとする。


 しかし、その行動はあまりにも遅すぎた。


 中水美衣奈は崎代咲綾の頭髪を掴んで固定すると、そのまま首筋にナイフを突き立てる。


 上良栄治の手を使い、間接的にナイフを持っている以上、刺突の力は弱い。


 せいぜい1、2センチ程度、皮膚を抉って刃を潜り込ませるくらいのものだ。


 でも、場所によっては命を奪うに事足りる。


「あ――っ。ぐ――っ」


 崎代咲綾の首筋からは、あざやかな朱色の鮮血が放物線を描いて飛び出してくる。


 頸動脈。


 心臓と脳という、命と直結している場所に繋がっている大切な血管。


 事件や事故が起きた時に、最も取り返しのつかない場所が傷つけられてしまった。


「な、ん、で……」


「あー、沙綾だいじょうぶー?」


 中水美衣奈は白々しくも心配しているふうを装う。


「ほら~、しっかり止血しないとダメだよ~。してあげるから、ね」


 もちろん形だけだ。


 実際には、首筋を押さえて血を止めようと必死にもがいている崎代咲綾の手をそれぞれ掴み、傷口から引きはがしていた。


「やめ……て」


「やめてじゃねえよ、裏切り者。私が同じことを言った時、お前はどうしてた?」


 中水美衣奈が上良栄治から暴行を受けていた時、崎代咲綾は何もしなかった。


 黙ったまま、じっと自体を静観していただけ。


 動いたのは、教室の鍵を開けたのは、私。


「ち、が――」


「違わねえよ。トモダチ? 見殺しにするような奴がトモダチなはずないだろ、考えろよ」


 生命の源が溢れ出すにつれ、崎代咲綾の言動は弱々しくなってくる。


 顔色は血の気が引いて急速に青白くなり、額には玉のような汗が浮かび始めた。


「そっちの奴隷どもより、裏切り者のお前の方が信用できないんだよ」


 もはや血が飛び出る勢いも減じており、弧を描いていた血の筋が、今は鼓動に合わせて時折吹き出すだけになっていた。


 崎代咲綾はもうすぐ死ぬ。


 中水美衣奈に殺される。


「み、い……」


「私の名前を呼ぶんじゃねえよ、気持ちわりぃ」


 中水美衣奈は崎代咲綾の体を、血で制服が汚れるのも構わず抱きとめる。


 もちろんそれは助けるためではなく――。


「お前ら。さっき言った通り、栄治が立ち上がって殺した。私はコイツを助けようとしたけど助けられなかった、だ。分かってるな? 間違うなよ」


 ――証拠隠滅のためだ。


 人を刺殺したら、目に見えないくらい小さな血しぶきが飛び散ってしまう。


 崎代咲綾の真正面に居た中水美衣奈はそれを浴びた可能性が高い。


 だから、助ける際に血がかかってしまったと言えば、服に血が付いていても言い訳がきく。


 中水美衣奈はそこまで考えていないかもしれないが、殺人鬼としての本能から自ら血を浴びたのだろう。


「響、分かってんな?」


「――――え、あ、え……」


 中水美衣奈はわざとらしく特大のため息をつきながら崎代咲綾の体を2、3メートルほど引きずっていく。


「いいや、よく覚えてないとかないでいいよ。その代わり――」


 べしゃりと音を立てながら崎代咲綾を乱雑に床へと転がしてから、上良栄治の隣に転がっている消火器を指差した。


「ソレ使って栄治の頭を潰せ」


 中水美衣奈は煩わしそうに告げた途端、私の左腕に振動が伝わって来る。


 響遊が、恐怖に震えているのだ。


「な、な、え? そ、そんなことっ」


「じゃあ、お前も死ぬ?」


 震えが大きくなる。


 私の腕にしがみついたまま、首を左右に振っているからだ。


「なら言うこと聞けよ。でないとバラすぞ」


 私の左腕が、強い力で握りしめられる。


 痛みが強くなればなるほど、響遊の焦りと恐れが伝わってきた。


「で、でもそうする理由が……」


 はぁっと、またもわざとらしくため息をついてから、中水美衣奈は人差し指で指し示す。


「私がを助けようとしたでしょ。それで――」


 実際には助けたのではない。


 殺したのだ。


 中水美衣奈はこれから警察に証言するべき内容を、私たちに指示していた。


「アンタは上良栄治を殴り殺した。いい?」


「そ、そんなっ」


 響遊は、弱みを握られ、中水美衣奈の言う事を聞かざるを得ない状況にある。


 その上拒めば殺されるかもしれないとあれば……。


「私を助けたヒーローになれるのに、なんか文句でもあるわけ?」


 命令に従う道しか残されていなかった。


「う……あ……そ、の……」


「夢中だったから覚えてませんでしたって言い訳もたつでしょ。勉強はできるくせに馬鹿じゃん」


「…………わ、わかり……ました」


 響遊は言われるがまま、渋々消火器を拾いに行く。


 その足取りは、重い。


「急げってまた言われないと分かんない? 愚図。マジ使えない」


「……はい、すみません」


 悪態で背中を蹴り飛ばされた響遊は、急いで消火器を拾うと、頭上に持ち上げたまま上良栄治の体を跨ぐ。


 そのまま振り下ろせば終わる。


 でも……響遊はそこで止まった。


 真っ青な顔をしているのは、死体とはいえ人間に対して殺害し得る行為をする事に抵抗があるからだろうか。


 とにかく、上良栄治の後頭部を睨みつけ、消火器を振り上げたまま、じっと立ち尽くしていた。


「おい、早くしろっつってんだろっ!」


「…………こ、これじゃあバレますよ」


「あぁ?」


 響遊はただためらっていたわけではなかった。


 それ以上に、気にしていることがあったのだ。


 生きている人間ならば、誰しもが考えるであろうこと。


 自分を守ること、だ。


「せ、生活反応といって、生きてる時についた傷と死んでからついた傷には違いが生まれるんです。後からやったんじゃ……」


 響遊は医者になりたいと言っていた。


 そのため、そういった知識も多少持っているのだろう。


 だからこそ、中水美衣奈の命令に従っていてはまずいと判断したのだろう。


「なら潰せよ」


「え?」


「馬鹿じゃねえの。見分けがつかなくなるまで潰せよ。死んでも殴ってましたって言えばいいだけの話だろ」


 しかし、なんと言われようと中水美衣奈は己の考えを曲げるつもりなど毛頭ないようだった。


 彼女にとって響遊は脅して言うことを聞かせる道具でしかなく、共犯者ではない。


 所詮、奴隷ごときの進言を、まともに取り合うつもりもなかったのだ。


「で、でも……」


「いいからしろよ。時間がねえっつってんだろ」


 恐らく中水美衣奈は響遊の弱みを更に握り、より強く彼の手綱を握りたいのだろう。


 だから罪を犯させようとしている。


 一方、響遊はこれ以上なにもしたくはない。


 でも強請るネタを掴まれているから、中水美衣奈の命令を聞かざるを得ない。


「べ、別のことをしてたでいいじゃないですかっ」


「ダメに決まってるだろ。証言がズレたらまずいんだよ」


 本当にそれが理由だろうか。


 恐らくは、更に大きな弱みを握るため、共犯としての意識を持たせるためではないだろうか。


「し、白山さんが居るじゃないですか!」


「白山?」


 ふっと鼻で嗤う音が聞こえてくる。


「この頭のネジが飛んだ状態でか? つうか、コイツは私の怖さを嫌ってほど知ってるから逆らえねぇよ。――なぁ?」


 私は何も応えない。


 何も反応しない。


 ただ黙って正面を、上良栄治の死体を眺めているだけ。


 私は私の行く末ゆくすえすら、どうでもよかった。


「だから、問題はお前だけなんだよ。早くしろよっ」


 再三に渡る命令を受けて、響遊は――消火器を勢いよく

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