銀色の指輪
ポツリと涙が落ちて、スウェットの膝あたりにうっすらシミを作った。薄いグレーが少し濃いめのグレーになっている。何で涙が出るのかは、自分でも、よくわからなかった。大切な人からもらった指輪を、ベッドに座ってじっと見る。
「え!?お前、彼女いねぇの!?」
数週間前、小柄でぽっちゃりしていて、愛嬌のあるくりっとした目をした母親と大差なさそうな年齢の先輩が俺に聞いてきた。女性なのに男口調で、面倒見のいい先輩だ。
俺は苦笑いをしながら答えた。
「いないっすよ……」
先輩は立て続けに話し掛けてくる。
「マジか!誰か紹介してやるよ!」
「え……いや、いいっすよ」
「お前、見た目悪くねぇのに、もったいねぇよ!」
「いやいや……」
勢いよく畳み掛けられて、断るつもりが断りきれなくなった。先輩はスマホを取り出して素早く操作して、ずいっと画面を俺に見せた。
そこには、パーカーのフードをかぶって、気だるそうな明るい髪色をした女性がいた。ご丁寧に「やる気出ない」とスタンプのようなものが付いていた。
「コイツ!めっちゃ良い奴だから!」
先輩は自慢気だ。ちょうど連絡を取りあっていたところのようだった。でも、先輩は声のトーンを落として「もうすぐどっか行っちゃうんだけどな……」寂しそうに言った。俺なんかを紹介しても、先輩の株を下げるだけなんじゃないだろうか。
待ち合わせの場所に写真で見た彼女は少し遅れてやって来て、先輩に笑顔を見せる。その後、少し驚いて俺を見た。どうやら彼女は、先輩が企画する別の飲み会だと思い込んでいたようで、キョトンとしている。くるくる変わる表情が可愛らしい人だと思った。先輩が彼女に説明すると、少し困ったような笑顔をした。
俺は申し訳ない気持ちになった。
下を向いていると、彼女が覗き込んできて、ピアスが街灯の明かりでチカッと光る。思わず、謝ってしまう。
「すいません、何も面白いこと話せなくて……」
「面白いより、安心できる仲の方がよくない?」
「そうすか……ありがとうございます」
「そうだよー」
穏やかに笑う姿に、俺の方が安心してしまう。彼女が旅立つ前に来たいと言った海が見える公園に来た。先程二人で棒付きのキャンディを口にして、俺のキャンディはサイダーの味で、「こっちの方が美味しそうだから」と渡された。彼女のキャンディは甘い香りはするが、何味なのかはわからない。
甘いものが苦手なわけではないから、味なんてどちらでも良かったのに、彼女は俺のことを優先して考えてくれる。離れてしまったら、俺のことなんかすぐに忘れてしまうかもしれない。胸が締め付けられる。何か言えたらいいのに、言葉が出ない。
上手く話すことができない俺のことを気遣うかのように、隣でゆっくり歩く彼女は繋いだ手を少しだけ前後に揺らしながら、鼻歌を歌っている。
「私、いなくなっちゃうのに。紹介されても困っちゃうよね。ごめんね」
紹介されたすぐ後に、彼女はそう言った。待ち合わせ場所で見た時と同じような、困った笑顔。そんな顔をして欲しくなくて、明るく笑う笑顔が見たい。でも、言葉が出てこない。だけど、何か言いたい。何とか口にできた言葉で、彼女は明るく笑った。
「そんなことないです。出会えて嬉しいです」
「大袈裟だよー!」
公園で海の見える場所まで来てベンチに座ると、笑顔で銀色の指輪を渡された。左手の中指に彼女が着けていた指輪だった。困っていると、するりと彼女が抱きついてきたから、抱き締めてみた。このまま、離さないでいたらずっと隣にいてくれるんだろうか。俺なんかがそんなことを望んでもいいんだろうか。
俺が彼女を引き留めたなら、行かないでくれるのだろうか。
家に帰ってから、もらった指輪を見て、涙が溢れ落ちた。
行って欲しくない。離れたくない。だけど、俺なんかがそんなことを望んでいいのか、そんな望みが許されるのか。
彼女からもらった指輪は、銀製のチェーンネックレスに通した。仕事中は作業着だからネックレスを首から下げていても問題は無い。彼女とは、いつ会えるのか、もうわからない。
「のんびり暮らしてる」とメッセージが来るから穏やかな日々を過ごしていそうだが、たまに「ここから逃げ出したい」ニュアンスを含ませたような一言があったりしたから、一刻も早く迎えに行きたかった。
彼女は高い高い塔に閉じ込められて、長い長い髪も切られてしまって、悲しそうな瞳で小さな窓から外を眺めることしかできないお姫様のようだ。
だけど、俺なんかが迎えに行っても、飛び下りて抱きついてくれるのだろうか。あのお姫様を迎えに行く王子のような資格が俺にあるんだろうか。
仕事が終わって家に帰ってくると、ネックレスを外して彼女からもらった指輪を眺めた。細かい模様が彫ってあるけれど、ハワイアンジュエリーのような華やかさはなくて、部屋の明かりでようやく鈍く光る。明かりがないとただの小さな輪になってしまう。何年も涙することなんてなかったのに、胸が締め付けられて、また涙がポツリと落ちる。
旅立つ前ギリギリまで少しでも一緒にいたくて「顔が見たいです」と連絡すれば、「今、出掛けてるから……ちょっと遅くなってもいいかな?」と返事が来て、俺は彼女が到着するところへ迎えに行く。
ある時、先に着いて俺を待っている彼女はマネキンのような表情をしていた。微笑みかける途中のような表情に、焦点の定まらない瞳で目を開いてどこを見ているのかわからない。両手を上着のポケットに入れて、ガードレールにもたれている。ぱちりと瞬きをすると、近くの花壇に腕を突っ込んでうずくまっている見知らぬ女性に焦点を合わせ見遣った。そうして、また女性から目を離し、ぱちりと瞬きをすると虚ろな瞳に戻る。
声を掛けると、ぱちりと瞬きをして、小首を傾げて甘えるように俺を見た。
「すいません、待たせちゃいました」
「ううん、待ってないよ。あのね、あと三分位ここにいてもいい?」
「はい、大丈夫です」
俺は微妙なその三分をわけもわからず、彼女の隣に立って待った。三分程経った頃。近くにうずくまる女性の元に、男性が小走りでやってきた。彼女はそれ確認すると笑顔を見せた。
「お待たせ!いこっか!」
駅のホームに向かう途中、彼女は言った。
「なんかね、女の人が具合悪そうで、一緒にいた男の人が『五分位、待ってて!動くなよ?絶対に動くなよ?』って声を掛けていなくなったから。いない間に何かあったら大変かなって。近くにいたの」
うずくまる女性はお酒を飲み過ぎたようで、道行く人は誰も気にしていなかったのに。皆、素通りしていたのに。彼女の優しさが作り物ではないことを知る。俺に向ける笑顔や優しさが作り物ではないことを知る。
だけど、あの垣間見せたマネキンのような口元だけがほんの少しだけ微笑んだ虚ろな瞳が気になった。
良くもない頭で彼女のことを毎日考えていると、マネキンのような瞳は、何かを準備していたのかもしれないという結論に至った。もうすぐ離れ離れになって、寂しくなる、悲しくなる……無理矢理、その感情を心のどこかに押し込んで、笑顔を作ろうとしていた時間。俺が、自分に自信がないから今まで気が付けなかったけれど、彼女は俺のことを大切に想ってくれていたんだ。
そして離れてから、彼女がマネキンのような瞳で過ごしているのではないかと思った時、自分でも今までしたことのない行動に出た。
ゆっくり話せなくてもいい、笑顔を見せてくれなくてもいい。だけど、あんな目はしてほしくない。
許されるなら、彼女が受け入れてくれるのなら、俺が彼女の傍にいる。「俺なんか」そんなことを言っている場合じゃない。「俺なんか」なんて、彼女に選んでもらえない不安の言い訳で、ただの甘えで傷付きたくなくて自分を守っているだけだ。
一目見るだけでもいい、もう俺を選んでくれなくてもいい。選んでもらえなくても、俺にとって大切な人だ。衝動的に、飛行機のチケットを取った。
雪が降り始めたのに、彼女は傘もささずに空を見上げて、しばらくするとコートの袖で顔を拭っていたように見えた。
泣いているようにも見えて、その背中が寂しそうで、鈍く光る銀色をした鎖の重い足枷をつけられているかのように動かない。
「ダメですよ、風邪ひいちゃいます」
そう傘を差し出しながら声をかけると、振り向いた彼女は驚いた顔をしてから、勢いよく抱きついてきた。傘を手放して、不安定な彼女の体勢を、受け止めて支える。両腕に力を入れて抱き締めた。
俺が彼女を支えていきたい。困った笑顔も穏やかな笑顔も明るい笑顔も、全て彼女の表面で、どの笑顔の裏にも「寂しい」と隠されていたはずだ。笑顔の前に見せるマネキンのような表情に隠されていたはずだ。「助けて」と言いたかったはずなのに、俺を心配させないために、ずっと元気そうに笑顔を向けて、離れてからも「私は大丈夫」なんてメッセージを送ってきていた。
彼女は俺にしがみついたまま、離れない。一つだけわかることは、離れてから毎日、きっと口元だけて笑うような表情をして過ごして、今は俺の腕の中で泣いている。身体が震えているのは、寒さのせいじゃないことくらいわかった。
もう大丈夫だ。
雪はいつの間にか止んでいて、雲の絶え間から光がさした。今後、「俺なんか」なんて絶対に言わない。彼女の足枷を断ち切ることを決めた。俺を選んでくれたのだから。彼女が手にした幸運は、俺の幸運でもある。チェーンネックレスに通した指輪が揺れる。指輪を俺の手に落とした時の、彼女の言葉を思い出した。
「別に高価なものでは無いし、お守り代わりに持っててほしいの。幸運を引き寄せる指輪なんだって」
銀色の距離 まゆし @mayu75
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