第65話 さあ、水琴さんを助けに行きましょう!


 俺たちは一通り水族館を見終わった後、建物の外に出た。

 あたりはちょっとした広場になっている。


 雲ひとつない晴れ空で、目の前には港と海が広がっている。


 気持ちよさそうに玲衣さんが伸びをして、俺は目をそらした。

 ついつい玲衣さんの胸に目が行ってしまう。


 玲衣さんもそれに気づいたのか、「照れなくてもいいのに」と言って、からかうように俺を見つめた。

 そして、いいことを思いついた、というふうに俺に言う。


「写真、撮らない? 水族館を背景にして二人の写真を撮るの」


 記念写真ということらしい。

 ただ、そのためには誰か別に写真を撮ってくれる人が必要になるけれど。


 玲衣さんはたまたま近くを通りがかった女の子に声をかけた。

 中学生ぐらいだろうか。

 三編みのおとなしそうな子で、玲衣さんが写真撮影を頼むと、快く引き受けてくれた。


 玲衣さんは俺のとなりに立つと、くすっと笑って俺の腕を手にとった。

 そして、強引に腕を組んだ。


「れ、玲衣さん」


「なに?」


 いたずらっぽく玲衣さんの瞳が輝く。

 玲衣さんが俺の腕を抱きしめるような形になっている。

 そうすると玲衣さんの胸の柔らかい部分がもろに俺の腕に当たるのだ。


 俺は恥ずかしくなったけれど、撮影してくれる人をあまり待たせるわけにもいかない。

 そのままの格好で俺たちは写真を撮ってもらった。


 玲衣さんは嬉しそうで、俺は恥ずかしくなって顔を赤くし、写真を撮ってくれた子は微笑ましいものを見るような目で俺たちを見ていた。


「これでやっと水族館に来れたね」


「約束を守れてよかったよ」


 今回は琴音の妨害のようなアクシデントもなく、デートは平穏に進んでいた。

 玲衣さんが弾んだ声で言う。 


「楽しかったね。次はあれ行こう!」


 玲衣さんが指をさしたのは港に浮かぶ船だった。

 それは引退した南極観測船で、今は内部が博物館になっているのだ。


 この港の有名な観光地だし、俺も賛成だった。


「でも、その前に……」


「その前に?」


「言わせないでほしいな」


 ちょっと恥ずかしそうに玲衣さんが言う。

 

 お手洗いに行きたい、ということらしい。

 俺は慌ててうなずいた。


 玲衣さんは近くのビルのトイレへと向かった。


 そして、玲衣さんがいなくなる。

 俺は文庫本のミステリを取り出して、玲衣さんが戻ってくるのを待った。


 けれど、いつまで経っても玲衣さんは戻ってこない。

 どうしたんだろう?


 電話をかけてみてもつながらない。

 俺はだんだんと不安になってきた。


 トイレのあいだぐらい大丈夫だろうというのは甘い考えだったかもしれない。

 玲衣さんの妹の遠見琴音は、玲衣さんのことを狙っている。


 以前は不良を玲衣さんにけしかけようとさえした。

 また、そういうことがあってもおかしくないのだ。


 携帯が震える。

 玲衣さんからかと思って急いで見ると、かけてきたのは夏帆だった。


 俺が出ると、夏帆は慌てた様子でまくしたてた。


「た、大変なの! 晴人!」


「どうしたの?」


「さっき遠見の屋敷の人からうちに……晴人の家に電話がかかってきて……玲衣さんを遠見家に連れ戻すつもりだって」

 

 俺は危うく電話を取り落しそうになった

 

 なんだっていまさらそんなことになるのだろう?

 玲衣さんの荷物はとっくの昔に俺の家に送られてきているし、父さんが玲衣さんの保護者になるということで話はついているんじゃなかったんだろうか。


 琴音の計画なのか、それとも遠見家の当主たちが玲衣さんを連れ戻す理由ができたのか。


 ともかく早く玲衣さんと合流して事情を確認しないといけない。


 けれど、一歩遅かった。


 反対側の道路に大きな黒い車が一台止まった。


 そして、黒服の男たちが銀色の髪の少女を押さえて押さえて、その車に連れ込む。


「玲衣さん!」


 俺の叫び声を聞いて、玲衣さんがこちらを振り向く。

 その目は大きく見開かれ、そして悲しそうに首を横に振った。


「来ちゃダメ! 晴人くんは……!」


 玲衣さんの悲痛な声はそこで聞こえなくなった。

 その華奢な身体は車のなかに押し込まれてしまい、すぐに車は走り去った。

 

 呆然としている俺の前に、セーラー服姿の少女が現れる。

 愉快そうに少女は笑った。


「ほらね、やっぱり先輩と姉さんは一緒にはいられない運命なんですよ」


 目の前にいたのは、遠見琴音だった。

 

「やだな、そんな怖い顔をしないでください。姉さんを連れ去ったのは、私ではないんですよ」


「なら……」


「あれは遠見グループの従業員たちですよ。汚い仕事にも手を染める怖い人たちですし、さすがに私でも使い立てしたりはできません」


「なら……」


「お祖父様の意向です」


 琴音はきっぱりと言った。


 玲衣さんと琴音の祖父というのは、遠見総一朗のことだろう。

 俺たちの町に本社を置く、全国的な巨大企業「遠見グループ」の会長だ。

 

 琴音は薄く笑う。


「本当なら私の手で姉さんを痛めつけたかったんですけど。でも、姉さんの思い通りにならずに、先輩と引き離されるだけでも愉快ですね」


「遠見さんは俺を怒らせたいのかな」


「はい。姉さんの好きな人の顔が絶望に染まるなんて、こんな嬉しいことはありません」


 一瞬、この琴音をこの場でどうにかしてしまいたい衝動に駆られたが、思いとどまった。

 そんなことをすれば、俺も琴音の同類だ。

 それに、それで玲衣さんが帰ってくるわけでもない。


 玲衣さんを取り戻し、玲衣さんの望む通りの自由な状態に解放することこそが、琴音に対する最も有効な反撃のはずだ。

 琴音は勝ち誇った表情で、「ごきげんよう、先輩。もう会うこともないかもしれませんけど」と言って、その場から立ち去った。

 

 携帯電話がつながったままだった。

 俺は夏帆に電話を切ることを告げようとしたが、いつのまにか電話口の相手が変わっていた。


「晴人君? 聞こえてる?」


「雨音姉さん?」


「ええ」


 俺は事態を説明した。

 玲衣さんが連れ去られてしまったと聞いて、雨音姉さんは「そう」と短くつぶやいた。

 そして、「連れ去ったのは遠見の大伯父様ね」と言った。


 俺は意外に思った。

 どうしてそのことがわかったんだろう?


 雨音姉さんは電話の向こうで余裕のある声で言った。


「私は遠見家の事情にも詳しいの。連れ去ったのが遠見本家なら、水琴さんにすぐに危害を加えたりはしないはず。だけど、いつまでそうかはわからないわ。……晴人は水琴さんのことが大事?」


「うん」


「私よりも?」


 そう聞かれて、俺は返事に困った。

 雨音姉さんは従姉だけれど、俺のずっと昔からの家族だ。


 だから、玲衣さんと雨音姉さんとどっちが大事かなんて聞かれても困る。

 そんな比較は不可能だ。


 でも、雨音姉さんはくすっと笑った。


「いいの。私よりも水琴さんのほうが大事なんでしょう。なら、水琴さんを助けに行きましょうか」


「玲衣さんを助ける? でも、どうやって?」

 

「遠見家に乗り込むのよ。私たちだって、いちおう遠見の分家の人間なんだから」


 俺は絶句したが、しばらくしてなんだか不可能でない気がしてきた。

 雨音姉さんと俺が一緒になって困難に挑めば、昔からなんとかなってきた気がする。


 今回だって、これだけ自信たっぷりなのだから、雨音姉さんになにか作戦があるんだろう。

 雨音姉さんは電話越しに確信のこもった声で言った。


「さあ、遠見の問題を解決しに行きましょう。そのために私は日本に戻ってきたんだから!」 

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