第19話 女神の怒り

 夏帆には『わたしたちの家』に関わらないでほしい。

 水琴さんはそう言った。


 夏帆が俺の告白を拒絶して、振ったのだから、と。


 夏帆は水琴さんを怖れるように後ずさった。


「ここが水琴さんの家? そんなの、嘘だよ」


「わたしは秋原くんのはとこなの。だから、この家に住むことになったの」


「晴人はそれを認めているの?」


 夏帆は俺に尋ね、水琴さんはちょっと不安そうに俺を見つめた。

 俺はうなずく。


「そうだよ。水琴さんはこの家の住人だ」


 その瞬間、水琴さんは青い瞳を大きく見開き、そして嬉しそうに頬を緩ませた。

 一方の夏帆は愕然としていた。


「あたし、そんなこと知らなかった。晴人はどうして教えてくれなかったの?」


 水琴さんが言う。


「それは、佐々木さんが知っている必要がないからだと思う」


「だけど、あたしは晴人の幼馴染で、家族みたいなもので……」


「佐々木さんは、秋原くんの家族ではないでしょう? わたしはちょっとだけ秋原くんと血がつながってるけど、佐々木さんは違う。……秋原くんを振っておいて、なのに思わせぶりな態度をして……都合のいいときだけ幼馴染だとか家族だとかためらいもなく言えてしまう。どうしてそんなことができるの?」


 水琴さんは少し怒ったふうに夏帆に問いかけた。

 こんなふうに水琴さんが怒る姿は初めて見た。

 そして、たぶん、水琴さんは俺のために怒ってくれているのだ。


「佐々木さんは卑怯だよ」


 水琴さんは小さな声でそう言った。

 夏帆は悲しそうに首を横に振る。


「違う。あたしは悪くないよ。……晴人があたしのことを好きになっちゃったのがいけないんだよ。そうじゃなければ、ずっと仲の良い幼馴染のままでいられたのに。なのに……」


 夏帆は両手で自分の身体を抱いて、うつむきながらつぶやいた。


「あたしだって、晴人のことを大事に思ってるの」


「なら、秋原くんのこと……どうして受け入れてあげなかったの? わたしが佐々木さんの立場だったら、きっと秋原くんのことを振ったりしない」


 水琴さんは静かにそう言った。


「でも、晴人が好きなのは、水琴さんじゃなくて、あたしなんだよ。そうだよね?」


 夏帆はそう言い、期待するように俺を上目遣いに見つめた。

 俺はちょっと驚く。振った相手に、普通はそんなことを聞かないと思う。

 一方の水琴さんの瞳には、怒りの色があった。


「秋原くんのことを振ったのに……なんで、そんなふうに秋原くんを傷つけることを言えるの?」


 夏帆は、はっとした顔をして、「そんなつもりじゃなくて……」と小さくつぶやく。

 俺のために怒ってくれる水琴さんは、さらに言葉を重ねようとしたけれど、俺は手でそれを制した。


 そう……夏帆の言う通りだ。

 俺は夏帆のことが好きだ。


 優しくて親切で可愛くて、誰よりも俺のことを理解してくれている女の子だと思っていた。

 でも。


「俺は夏帆のことを好きだよ……だけどさ、夏帆は俺のことを好きじゃない。だから、俺の告白を断った」


「それは……」


「俺も、夏帆とはいつまでも仲の良い幼馴染でいたいよ。でも……きっと夏帆にはいつか俺よりも大事な存在ができて、幼馴染のことなんかどうでもよくなるんだ」


 夏帆は俺と水琴さんを交互に見比べ、それから暗い声で言った。


「そっか……晴人にも、あたし以外にそういう人ができるかもしれないんだ」


 そうだ。

 今の俺は夏帆のことが好きだけれど。

 でも、いつか、それだって変わるかもしれないのだ。 


 夏帆は、なぜか泣きそうな顔をしていた。

 

「あたしは、悪い子だから、晴人のことを好きになれないの……なっちゃいけないの……。だから……」


 夏帆はよろよろと二歩、三歩と後ずさり、壁にぶつかった。

 そして、夏帆は首を横に振った。


「……あたし、帰るね」


 そう言うと、夏帆は逃げるように玄関へと戻った。

 夏帆が靴を履くとき、セーラー服のスカートの裾から、綺麗な白い太ももが見えた。

 

 夏帆の言う通りだ。

 俺はたしかに夏帆を性的な対象として見ていて、だから、夏帆のちょっとした動作に心を動かされてしまう。


 夏帆は俺たちを振り返った。


「水琴さん、お大事にね」


 そう言うと、夏帆は玄関から消えた。

 結局、鍵を返さなかったな、と俺は思った。


 残されたのは、俺と水琴さんだけだった。


 しばらく沈黙が支配した後、水琴さんがふたたび小さくくしゃみをした。

 俺が水琴さんを見ると、水琴さんは顔を真赤にした。


 水琴さんはいまだに上半身裸のままだった。白く大きな胸の膨らみを両手で隠している。

 俺は慌てて目をそらす。


「ごめん。早く着替えてよ」


「秋原くん」


「なに?」


「わたし、佐々木さんに言ったよね。秋原くんに下着の替えを用意してもらって、それで身体を拭いてもらうって」


「たしかに言ってたけど……」


「ほんとに、お願いしてもいい?」


 水琴さんは碧く美しい瞳で、恥ずかしそうに俺を見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る