第4話 女神の水琴さんは塩対応

 水琴みことさんに移動教室変更のことを伝えるために、俺はのろのろと教室の椅子と椅子のあいだを歩いていった。


 水琴さんの席は窓際かつ一番うしろ。

 なんて羨ましいんだろう。


 背後に誰もいないから、とても落ち着くんじゃないかと思う。

 でも、この季節だと換気のときは寒いし、ストーブからも遠いから、良いことばかりじゃなかもしれない。


 俺が席の位置なんてどうでもいいことを考えていたのは、現実逃避だ。

 つまり、水琴さんに話しかけたくないということだ。


 クラスメイトに話しかける程度、大したことじゃないと思うかもしれない。

 でも、俺はどちらかといえば内気な性格だし、相手はあまり話したことのない美少女なのだ。

 まあ、怖いのは最初の一言で、話し始めてしまえば次第に慣れてくることも多いけど。


 しかし、絶対に話しかけるな、みたいなオーラを水琴さんがまとっているような気もする。

 

 俺が水琴さんの前に立っても、水琴さんは顔も上げなかった。

 目を机の上に落として、なにか本を読んでいる。


「水琴さん。悪いけど、ちょっといいかな」


 俺が声をかけても反応なし。

 もう一度、試してみる。


「水琴さん。……水琴さん? ……水琴玲衣さん!」


 俺がやや強めの語調でフルネームを口にすると、ようやく水琴さんはこちらを見上げた。

 けだるげな表情で、水琴さんが青い瞳でこちらを見つめていた。


 思わず、どきりとする。

 さすが我らが学校の女神様。


 そんなだるそうな表情ですら、水琴さんは美しく見える。

 水琴さんが学校一の美少女だと騒がれていることに改めて納得し、感心した 

 

 まあ、俺は夏帆みたいな明るい可愛さのほうが好きだけれど。

 俺の好みなんて、水琴さんにとっても夏帆にとってもどうでもいいことだろう。


「なに?」


 短く、水琴さんが俺に問いかけた。

 なんだか水琴さんの青い瞳の目元がとろんとしている。

 

 水琴さん、実は眠いんじゃないだろうか。

 俺は気になって、思わず聞いた。


「何を読んでるの?」


「本」


 水琴さんが漢字一文字分で即答した。

 本を読んでいるのは、見ればわかるんだけれど。


 俺はもういっぺん感心した。

 さすが「氷の女神」と呼ばれているだけのことはある。

 対応が冷たい!


 のぞき見するのは悪いかと思ったけれど、一瞬、水琴さんの手のなかの文庫本の表紙がめくれた。

 へえ、と俺はつぶやいた。


「これ、面白いよね。『黒後家蜘蛛の会』」


 水琴さんが読んでいたのは、古いミステリで、たまたま俺も読んだことのある小説だった。

 こう見えて、俺はけっこうミステリ好きなのだ。


 水琴さんがちょっと驚いたような、珍しいものを見るような目で俺を見た。

 はじめて、水琴さんの感情が動いた瞬間だった。


 そして、水琴さんは言った。


「わたしには、全然おもしろくない」


「ああ、そうなんだ。眠そうにしてるものね」


「そうね」

 

 水琴さんは短くつぶやくと、また、つまらなさそうな表情に戻った。


 毒をくらわば皿まで、という言葉もある。

 俺は水琴さんのガードを崩すべく、ちょっと食い下がってみた。


「つまらないのにさ、なんでその本、読んでるの?」


「買ったのに読まないと損した気分になるから。それで、秋原くんだっけ? 何も用がないなら、自分の席に帰ったら?」


 あっさり、水琴さんとの雑談は打ち切られた。

 食い下がりは、失敗だ。

 GAMEOVERのアルファベット八文字が頭のなかにちかちかと浮かび、消えた。

 

 やっぱり最初から用件だけ伝えるべきだった。

 俺は端的に水琴さんに言った。


「次の時間の移動教室、変更だって」


 そして、俺は手短に詳細を伝えた。

 水琴さんはうなずくと「ありがと」と小さく言った。


 さすがにお礼ぐらいは言うらしい。

 俺は丁重に「どういたしまして」と言うと、その場を去った。


 いやあ、緊張した。

 これが皆が怖れる水琴さんか。


 べつにそれほど怖いわけじゃないけれど、素っ気ないことはたしかだ。

 女子にはここまで冷淡な態度はとらないらしいから、男嫌いなのかもしれない。


 席に戻ってきたときも、まだ夏帆は俺の後ろの机で足をぶらぶらさせていた。

 けど、今度はちゃんとスカートの裾を押さえて、下着が見えないようにしている。


「残念でした。またパンツが見られるかと思った?」


「そんなこと思ってないよ」


「そうかなー」


 夏帆は俺をからかうように笑っていた。


「あっ、それよりさ、水琴さん、どうだった?」


 夏帆が興味津々といった感じで俺を上目遣いに見て尋ねる。

 俺は肩をすくめた。


「たしかに女神様って感じだね」


 美しく冷ややかな氷の女神様。

 それが俺の水琴玲衣に対する印象だった。


 まあ、あと数ヶ月でクラスも替わるし、それまでにまた水琴さんに話しかけることも、たぶん、あまりないだろう。


 水琴さんは、無色透明の俺とは遠くかけ離れた存在だ。

 そのときの俺はまだそう思っていた。


 その日の夜に、水琴さんが俺のアパートにやってくるなんて想像できなくて当然だ。

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