ぐるぐる
詩野聡一郎
ぐるぐる
あの子は、「ぐるぐる」と呼んでいた。
幼い頃に私が買ってあげた、何の変哲もない風車のことだ。
あの子は、いつもそれを楽しそうに眺めていた。
私が洗濯で忙しい時も、料理で忙しい時も、あの子はそれを眺めていた。
何の変哲もない風車を回して何が楽しいのか、当時の私にはわからなかった。
あんなものを回しても、ずっと同じ模様を楽しむことしかできなくて、つまらないに決まっているのに。
だから、お医者さんがその子の姿に名前をつけても、私にはよくわからなかった。
調べてみても難しい用語が連鎖反応を起こしていくし、確かなようで不確かな情報しか得られなかった。
結局のところ、あの子の中でなにが起こっているのかは、どんな本を読んでもわからなかったし、どんなに偉い人の話を聞いてもよくわからなかった。
ただただ、自分の中のネガティブな感情が増していくことしか、成果は得られなかった。
でも、それはよくよく考えてみれば当たり前のことだと、今ならわかる。
あの子のことは、あの子にしかわからない。
どんな本に書いてある、どんな人の話でも、それはあの子のことじゃない。
偉い先生が言っている客観的で正しい概念も、どこまでいってもあの子の視点じゃない。
当時の私がどうしてこんなことに気づかなかったのかは、今となってはわからない。
言葉が上手く通じない相手がいるのは、テレビに出てくるよその国の人を見ればすぐわかることなのに、私はわかっていなかった。
言葉が上手く通じないというだけで、理解し合えるはずがないと、私は諦めてしまっていた。
私はそうでも、あの子は違っていたんだと、今は思っている。
あの子が私に伸ばしてくる手の意味も、私にすがりついてくる意味も、私はわかっていなかった。
いつも料理や洗濯で忙しかったし、仕事もあったから、早く終わらせて欲しいとしか思っていなかった。
でも、あれはきっと、私のことをわかろうとしてくれていたのではないかと、思わずにはいられない。
手で触れて、手で掴んで、全身で触れて、全身で抱きしめて。
私という存在を、あの子なりに感じてくれようとしてくれていたんじゃないかと、思っている。
私はそれを鬱陶しく思ってしまって、いつも、あの子に満足に触れてあげていなかった。
あの子に、私を与えてあげていなかった。
今になって、わかることがある。
幼い頃に私が買ってあげた、「ぐるぐる」のことだ。
あの子は、いつもそれを楽しそうに眺めていた。
そして今、私もそれを眺めている。
眺めていても楽しくはないけれど、今ならあの子の気持ちが少しだけ、わかった気がしている。
私は、今ではすっかり料理も洗濯も、満足にできなくなってしまった。
この世界は、一度よく見てしまうとあまりにも刺激が多すぎて、パニックになってしまいそうだった。
私の世界は、一度よく見てしまうとあまりにも感情が多すぎて、パニックになってしまいそうだった。
誰かの言葉、道行く車の音、日差しですら、私に襲いかかってくるように感じられた。
それら全てを真に受けてしまうと、自分というものがよくわからなくなってしまいそうだった。
世界がこんな姿をしているなんて、思ってみたこともなかった。
そんな時に、しまい込んでいた「ぐるぐる」を、私は見つけた。
それを眺めていると、それだけしか見えなくて、なんだか落ち着くことができた。
ああ、こういうことだったのかと、今になってようやく思う。
これが、あの子の世界なんだ。それは、私のすぐ近くにあったんだ。
ずっとずっと、私がいなくなった後のあの子のことばかりを考えていて、今のあの子を見るということをしてこなかった。
あの子はあんなに今の私を理解しようと手を伸ばしてくれていたのに、私はあの子に手を伸ばしてこなかった。
あの子が天国に行ってから理解するなんて、本当に遅すぎるかもしれない。
できれば、あの子が生きている間に、理解してあげられていたらよかったのに。
そして、私は今日も「ぐるぐる」を眺めている。
頬を、涙が一筋伝った。
ぐるぐる 詩野聡一郎 @ShinoS1R
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