第十話 相生(あいおい)の松
重く体にまとわりつく初夏の蒸し暑さが、夕方には
おや、女と子どもばかりだ。百人ぐらいはいる。武士の姿もちらほら見えるが、おれは何とも場違いだな。ようやく乾いた汗が再び額から噴き出てくる。庭の端の草に腰を下ろして舞台を見上げた。舞台のまわりに敷き詰められた白い玉砂利が
女や子どもが多いのは、有力な土豪や町衆、百姓,番匠たちの妻子を人質として御主殿に連れて来ているからだ。きっとこの中に、おれの母さんもいる。立ち上がって、あたりをしきりと見回すが、母の姿は見つからない。いないようだな。会いたかったな。いや、待てよ。人質をまだ出していないということは、やはり三沢十騎衆は豊臣方につくのか。再び腰を下ろし背を丸め、頭を抱えてつぶやく。
「何てこった」
姫や身分の高い者の妻子は戸を開け放った会所から見物するのだろう。
皆、青磁の小皿に載せられた餅を食べている。竜ノ介の座っている向かい側の隅で下女たち数人が茶と餅を配っていた。人の列ができている。
一人の若い娘が竜之介の目に飛び込む。
「おや、あれは小梅だ」
いつも番所に飯を運んでくれる娘。やっと一昨日前に話しかけて、名を聞くことができた。十五ぐらいかと思ったら、おれより二つも年上で十九だった。今日は赤い小袖姿に白い
小梅が盆の上に餅と茶碗を持ってやってきた。
横にしゃがみこんだ若い娘の甘酸っぱい汗の匂いが、竜ノ介の鼻をくすぐる。
「はい、どうぞ召し上がって下さい。宗阿弥様の舞を観にいらしたのですね。今宵は
「おっ、ほんとうか、それはいいな」
竜ノ介の言葉に小梅は楽しそうに声を上げて笑った。
「こんな色の皿、初めて見たぞ。餅がさらに
静かな湖水をうつしたような薄緑色の小皿を物珍しそうに見つめる
「ええ、それは明国の
そう言うと立ち上がって、人々の中に消えた。
「ほお、良い皿を人質のために使うとは」
首をかしげながら、餅をゆっくり噛みしめて飲み込むと、五臓六腑が喜ぶ。
「ほら、どれも美しいでしょう」
小梅が再びやってきて竜ノ介の横にしゃがみこむ。
人々が使い終わった小皿を盆の上に重ね、それをわざわざ見せに来た。五色の華やかな絵模様や、白地に藍色で草木や鳥獣の絵が染め付けられた小皿、瑠璃色に輝く小皿など様々だった。
「これなんて、裏側に
瑠璃色の小皿をひっくり返して嬉しそうに竜ノ介に見せる。
「へーすごいな、さすがは御館様だ。色々なおもしろい皿があるんだな。ところで、小梅の里は
話しかけてくる小梅の笑顔が今日は
「ふふふ、まさか。異国の女ではありませんよ。武蔵国の
「もしや、姫と同郷か。北条幻庵様の領地だな」
「まあ、驚いた。よくご存知ですね。姫様がご幼少の頃から、ずっと下女として仕えております」
「そうだったのか。どんな里だろう。海が見えるのかい」
「ええ、山の上の
うつむくと竜ノ介が餅を食べ終わった皿を取り、盆の上に重ねて無言で立ち去って行った。
笹下城は間宮信元の城。山あり谷ありで、幾筋もの川に守られた山城だと聞く。姫の里から見下ろせるとは驚きだ。もしや、有力な家臣を見張る役目があるということなのか。何だか、おれの知らないことばかりだ。
庭には若く
鏡の間の幕が揚がり、
「
無数の黒い影がゆらゆらと動き出す。謡に合わせ楽しげに舞う子ども、共に謡を口ずさむ女、手にした
「げに様々の舞姫の~声も澄むなり住之江の~松陰もうつるなる~
住之江の神となった宗阿弥が天高く跳ねた。金色の扇を広げて一人舞う。
寄せては返す波の音、青い大海原が見える。竜ノ介は立ち上がって目を凝らす。ここは浜辺だ。高砂の浦の松と住之江の松は夫婦だという。遠く離れていても固く結ばれているから、二つの松は
謡と舞が終わり宗阿弥は幻のように舞台から消えていた。竜ノ介は夢から覚めた。波の音は人々のがやがやとした話し声だったのか。
白い装束の宗阿弥が汗を拭きながらやってきた。化粧が汗で流れ落ちた様子は、まるで涙に明け暮れる遊女。
「すごい。おれは宗阿弥様の謡と舞によって、遠い土地に連れて行かれてしまいました。西国の住之江という浜辺にいた。八王子城の頂上から見える相模の海しか見たことがなかったのに。西国の浜辺を旅して来た」
興奮を隠しきれない。
「ははは、そうか、それはよかった。楽しんでもらえたようだな。ところで今、会所内に姫がいる。挨拶へ行くぞ」
舞台の上で
二人は会所に上がり、未だ新しい畳の上にひれ伏す。宗阿弥は少し顔を上げて、猿楽役者の良く通る美声で言う。
「姫、新しい門番で姫の守り役、土方竜ノ介を連れて参りました。中山助六郎殿の家来、槍の使い手。戦の時に姫をお守りする腕の立つ若者です。どうぞ御見知りおきを」
再びひれ伏すと、竜ノ介の耳もとで
「しまった、わしは大切な扇を何処かに置き忘れてしまったようじゃ。探さねば。ここで失礼する。しっかり話せよ」
藤色の振り袖に袴を着けた姫と、その少し斜め後ろに座っていた僧形の老人に、宗阿弥は形ばかりの挨拶をすると、風のように立ち去ってしまった。竜ノ介は困惑した。姫の前に一人ひれ伏し、次にどうしていいのやら、何を言えばいいのかわからない。
「竜ノ介とやら、
思いがけず厳しい姫の言葉に、さらに額が畳に沈むほど、ひれ伏していた。
「助六郎様がわざわざ、姫をお守りするためによこした槍足軽だ。そのように
僧形の老人が淡々と言う。
姫は老人の言葉にしばし黙り込んでしまった。
「
竜ノ介は困惑した。頭とみぞおちがぎりぎりと痛む。おれの命が危うくなっている。どうやら敵の
目の前の僧形の老人には、人を圧するような力強さと迫力があった。こいつは一体何者だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます