猿の内政官の息子

橋本洋一

前編 豊国指南書のこと

 父さまが亡くなって三日後のことだった。

 かつて長浜で鍛錬に励んだ仲間がやってきた。


「雨竜秀晴殿。こたびは――とても残念だったな」


 父さまが最期に過ごした京の屋敷。

 朝早く訪ねてきて、折り目正しく俺にそう言ったのは、加藤清正殿だった。泣き腫らした目で優しく微笑む彼に、俺は「ようこそおいでくださいました」と頭を下げる。


「うおおおおおおお! 雲之介さん! 早すぎるだろ!」


 京の職人に作らせた位牌の前で、男泣きしているのは福島正則殿。門の前で会ったときはこらえていたようだが、位牌を見て耐え切れなかったようだ。


「正則、泣くな。先生の最期は穏やかだと、ご家族の方々が申していたではないか」


 たしなめる石田三成殿の目にも涙が滲んでいる。普段冷静な石田殿が感情を乱すのは珍しかった。


「石田殿。義父上さまが亡くなったんだ。少しぐらい良いではないか」


 俺の義兄弟である浅井昭政はそう言って手を合わせた。悲しむ気持ちが分かっているのだろう。

 俺だって父さまが死んだことを悲しむ気持ちはある。しかし実感が湧かなかった。

 己が冷たい人間だからだろうか?

 それともいまいち信じていないのだろうか。

 偉大すぎる父さまが亡くなったことを。


「大谷殿は病ゆえ、来られないことを申し訳ないと言っていた」


 石田殿が申し訳無さそうに俺に頭を下げた。そういえば二人は無二の親友だった。


「気にしないでください。重い病なのでしょう?」

「ああ、そうだ。かなりの重病だ」


 曇った顔でそう答える石田殿。

 場の雰囲気が暗くなってしまった。だから馬鹿みたいに明るく言う。


「そういえば、昭政殿。あなたはあの本をもらいましたか?」

「あの本……ああ、豊国指南書か!」


 ぽんと手を叩いた昭政殿は「ここにある」と懐から分厚い冊子を取り出した。

 達筆な字で『豊国指南書』で題名が書かれている。


「うん? なんじゃそりゃ」

「父さまが遺した、内政の指南書です」

「なに!? それは貴重ではないか!」


 俺の言葉にいち早く反応したのは石田殿だった。泣いている福島殿をやや乱雑に押しのけて、昭政殿の持っている本を指差した。


「そんな値千金なものを、懐に仕舞うな!」

「逆だ石田殿。懐に仕舞っておかないと心配で夜も眠れない」


 昭政殿の持っている本を物欲しげな目で見つめる石田殿。もしも竹馬の友でなければ、殺してでも奪いそうな目をしていた。


「どうしてお前に……先生は私を後継者として認めてくれなかったのか」

「三成。お前が雲之介さんの後継者? いつそんな話したんだ?」


 加藤殿が不思議そうな顔で訊ねると「忘れたのか!」と石田殿が怒鳴った。


「大返しで先生がしんがりを務めたとき、申したではないか! お前もその場に居ただろう!」

「……そうだっけ? 覚えてないな。なにせ必死だったものだから」

「お前って奴は!」


 喧嘩が始まりそうになったので慌てて「父さまのおっしゃっていたことを覚えていますか!」と大声で言った。

 すると二人は俺の顔を見て、同時にばつの悪い顔になる。


「……仲違いしないこと。重々承知している」


 石田殿が渋々そう言ったのでほっと安心した。

 その様子を昭政殿――その間、豊国指南書を盗られないように抱きしめていた――は見守っていた。


「それで、この本がどうだと言うんだ?」

「俺も持っているが、まだ中身を読んでいない。だからここで読んでみようと思う」


 既に昭政殿の父、長政殿から本を頂いていたが、三日間読んでいなかった。

 父さまを荼毘に付して、三箇所の墓――丹波国と母さまの墓と大坂城だ――に埋葬しなくてはいけなかった。既に骨となった父さまは三箇所の墓へと移動している。


「いいのか!? 一文一文が金言のようなものだぞ!」


 大げさな表現だと思ったが、吏僚の石田殿にとってはまさしくそのとおりなのだろう。

 加藤殿と大泣きしていた福島殿も興味がそそられたらしく、近くに寄ってきた。


「では昭政殿。開いてくれ」

「ああ。分かった」


 まず一枚目をめくると、そこには八つの項目が書かれていた。

 教育、経済、登用、政策、築城、開墾、権力、海外。


「なんだこりゃ?」

「おそらく項目ごとに内政策が書かれているのだろう」


 福島殿の疑問に昭政殿が答えた。


「は、早くめくってくれ!」


 本当に沈着冷静な石田殿らしくないなと思った。

 昭政殿が一枚めくる。


 教育の序文にはこう書かれていた。

『天下を太平に保つには優れた武人と秀でた吏僚が必要である。二つは政治という荷台の両輪であり、どちらかが欠けてしまったら政治は進まないものだ。強い武力を持つことで武威を示し、強かな知恵を持つことで実務をこなす。それゆえに広く優秀な人材を集めて教育し、各々の才能に見合った能力を伸ばすことが肝要である』


 これは全員が思い当たることだった。父さまは俺たちを教育してくださった。そのときの経験から、これを第一に持ってきたのだろう。


 そして具体的な指導法が次の文章に書かれている。

『武人には武芸、軍学といった戦に役立つことを、吏僚には算術、作文といった実務に役立つことを教えるべし。しかし、吏僚にも武芸、武人にも算術をある程度教えることも重要である。それは互いの務めの大変さを知る機会になるからである。

 であるならば、教育を段階ごとに分けることが重要である。便宜的に初等と高等に分ける。初等ではまんべんなく教えることで得手不得手など身を以って分からせる。そして高等でそれぞれが適している教育をするべし』


 また指導者についても記述があり『指導者は四年ごとに自身が教育者として相応しいか示す必要がある』と書かれていた。常に新しい知識を持たない者は、指導者として失格であるとされる。


 それから『医術や農学、鉱山を専門に学ぶ施設を作るべし』と書かれていた。おそらく父さまはそれらを重要視していたのだろう。晩年の父さまを思えば分かりそうなことだった。


 第二の経済の項目には、日の本だけで銭を回す方策が書かれていた。


『元来、日の本には銭の鋳造技術が拙く、すぐに贋作などが出回っていた。また材料となる銅を採掘する技術もなかった。ゆえに大陸の明や古の宋の銭を使わざるを得なかった。その結果、日の本は慢性的に銭が不足しており、鐚銭などが出回ってしまう。それらを解決するには、日の本独自の銭を作ることが重要である』


「日の本独自の銭? それってどう作るんだ?」

「それは……」


 あまりに突飛な発想なので、聞いた福島殿も聞かれた石田殿も混乱していた。


『まず銭を鋳造する権利は朝廷、つまり帝にある。その権利を豊臣家が代行する形のほうが好ましい。銭に必要なのは信用性である。次に日の本各地の鉱山を豊臣家が独占し、その鉱石で銭を作る。また基軸となる銭は五種類か六種類が無難だろう』


「石田殿。基軸ってなんだ?」

「もとになる単位のことで、一種類の銭だと高額取引や小回りが効かないんだ」


『銭が流通すれば、それまで銭の代わりであった米の値段は相対的に落ちる。ゆえに貧しい者でも米を買えるようになる。だが同時に年貢としての価値が下がるので、銭が機能しだしたら徐々に税は銭で取るほうが好ましい』


 米の価値が下がる? そんなことがありえるのだろうか?

 武士にとって米の収穫量を表す石高は自身の力を示すものだ。

 価値が無くなってしまったら、日の本は混乱するんじゃないだろうか?


『銭の仕組みが整ったのであれば、各地域の特産物や名物を作り、それらの売買で銭を回す。それに加えて必要なのは文化である。人は銭を持てば貯蓄ではなく、何かを買いたくなる。つまり贅沢をしたくなるのだ。だから茶道などの文化を広めれば、自ずと民は銭を使う』


 幼い頃、茶道に傾倒していた父さまらしい一文である。この中で茶道の心得があるのは、昭政殿ぐらいだ。だからいまいち分かっていない面々だった。


 第三は登用である。これは人材を集める方策が書かれていた。


『先に述べた初等の教育だが、これは武家のみならず、商家や百姓の出の者にも施すべし。人の能力は生まれに由来するものではなく、育ちに起因するものでもなく、教育によって開花するものである。ゆえに広く教育を施し、有職無実な者を無くす』


「おいおい。こりゃすげえこと言っているな。俺でも分かるぞ」


 福島殿の驚嘆の声に「しかし分かる気がするな」と加藤殿が頷いた。


「俺も生まれが良いだけで、高位の役職に就いている者を何人か知っている。前々から無くしたほうが良いと考えていた」


 俺は居た堪れない気持ちになった。俺自身、父さまを超えられないと分かっているからだ。

 なのに京に近い丹波国を任されている。重圧を常日頃から感じている。


『真に平等な日の本は作れないだろう。しかし、機会は均等に与えられるべきである。教育に関しては不平等があってはならない。そして登用の際、身内びいきや格式ある家などを考慮してはならない。かといってそれらの者を色眼鏡で見てはならない』


 父さま。あなたはお優しい人だった。それでいて、自分はたまたま、秀吉公と出会ったからここまで出世したのだと思っていたのかもしれない。


 その後、政策、築城、開墾、権力、海外を読み終えると、外はすっかり夕暮れになってしまった。


「秀晴殿。これを譲ってはいただけぬか?」


 石田殿が真剣な表情で懇願したのを、俺は「お断りいたします」と答えた。


「これは父さまの形見ですので」

「……そうか。残念だ」

「時間があれば、俺が写して渡しますよ」


 その言葉に石田殿はぱあっと顔を輝かせた。


「本当か!?」


 その笑顔を見て、石田殿は本当に父さまを慕っていたのだなと感じた。

 加藤殿たちが去った後、俺は昭政殿と酒を酌み交わした。


「義父上さまは偉大過ぎる。秀晴殿、大変だな」

「分かっているさ。俺は……あの人を超えられない」


 おそらく悲痛に満ちた顔をしていたのだろう。

 そんな俺を慰めるように「あの人にはないもので、超えるしかない」と昭政殿は酒を煽った。


「義父上さまだって、超え続けたんだ。自分に足りないものを補って、公方さまのために戦い続けた」

「…………」

「葬儀は、五日後らしいな」


 俺は頷いた。京の大徳寺で行なわれる。あの信長公の葬儀が行われた格式高い寺院である。

 喪主は俺が務めることになっている。後妻のはるさんがやると、織田の家ゆえにいろいろと厄介なことが起こるからだ。


「五日後には多くの武将が来る。警護をしっかりしないとな」

「ああ、分かっているさ」

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