サーカス ニ

 

 鹿島ヒナはこのサーカスの団長の二人の娘の姉であり、サーカスではこれと言った芸もなく雑役みたいに働いていた。器量も良くはなく口数も少なく、あえて言うなら日陰者であった。 そしてヒナには未だに払拭しきれない悲しい過去があった。と言うのもヒナは団長、鹿島真輔の妻、千賀子の実の子ではない。

 

 鹿島の前妻玲子の子なのだ。今から十年以上も前にヒナの実の母、玲子は巡業先のイギリスで死亡した。玲子は空中ブランコのメンバーであったが、演技中に誤って地面に落下し首の骨を折って即死している。

 

 近代サーカス発祥の地、イギリスでの興行は鹿島の夢であった。それに伴い玲子は気忙しく働き過ぎて著しく体調を壊していたのに、押して演技をしたのがいけなかったのだろう。その時はロンドン警視庁の取り調べを受けたが玲子の死因は事故であったとされた。

 

 だが千賀子の実の娘、妹のユリは今やサーカスの花形であった。鹿島サーカスではユリのナイフ投げの演目が興行の呼び物の一つになっていた。ユリは小柄ではあるが均整のとれた肢体と、愛らしいマスクを持っていて観客達を魅了した。その美貌が世の男性たちの心を射たのはわかるが、女性たちさえ彼女のその優しくて凛々しい笑顔にとても好感を持っていた。

 スターというものがいくつの条件を満たせばそれになれるか判らないが、彼女はそのスター性を十二分に備えていた。

 

 過去はまあ、ともかくとして、いつしか異母兄弟であるヒナとユリの間に女同士の確執が生まれた。つまりこの二人は同じように鹿島真輔の愛と祝福とを欲していた。

 ヒナの義母千賀子は表面こそヒナに優しく接したがその実、血縁のないヒナをどうしてもユリと比較してしまう。


 実は千賀子もまた若い頃、とても美人でアクロバティックな演技で名を馳せた、空中ブランコのメンバーだったのである。ユリはその容姿と卓越した身体能力を千賀子から受け継いでいた。だから鹿島真輔はユリが七歳の時から空中ブランコとナイフ投げ妙技を徹底的に仕込んだ。とても厳しい指導であったがユリはそれに耐えた。

 

 むろん鹿島は同じようにヒナにも芸を教え込もうとしたが、ヒナは何をやらせても駄目であった。動作がのろまで機敏な事は苦手なのだ。逆に厳しい稽古はヒナに地獄のような苦痛と、ユリに対する僻みを芽生えさせた。

 

 ヒナは幼心にも父に大切にされるには、サーカスの花になることが一番手っ取り早いと、直感的にそう感じ取っていたけれども、それが思うようにできなかった。

 

 父と特に母の前ではいつも何でも「はい」と素直にいう事をきくヒナだったが、実の母を失ったか悲しみは心の隅に残っていた。そしてどこかにやり場のない孤独を抱えていた。ヒナは父を敬う反面、サーカスの団員たちをまるで品物の様に値踏みする父がどうしても好きにはなれなかった。

 

 そして母の死の原因はもしかしたら父にあるのではないかと妙にひねくれて考えていた。つまり体調の悪かった母に休息もろくに与えず、空中グランコの演目を押してやらせた父にこそ、父の非情こそが母を間接的に殺したのではないかと、今年二十歳の誕生日を迎えたヒナにはそういう風に思えてならなかったのである。

 

 ある時、鹿島サーカスの盛況を祝って近くのホテルで贅沢な宴会が開かれた。無論そこには鹿島もユリも団員達の大勢が同席していたが、酒好きの千賀子はその席でヒナにこう言った。


「あなたはもうサーカスで働くのはおやめなさい。学校なんて行かなくていいから、いい旦那様でもみつけて家庭に収まるのが一番、身の安全だわね。その器量じゃ結婚も難しいかもしれないけれど、ここにいたのじゃ、生涯うだつは上がらないわ。あなたとユリとじゃ、出来が違うのだからね」

 

 その時のヒナの目は異様で、まるで下から狂犬のように千賀子を睨んでいた。そしてなにか思いつめたようにその席から出て行ったのである。その様子を見て「おいおい、千賀子そんなこと言ったらヒナが可哀想じゃないか」と鹿島は言ったが、すぐ他の雑談に花が咲きそんなことはつい忘れてしまうのだった。

 

 ヒナは仮住まいの自分の部屋に戻ると、母の形見の赤い櫛を抽斗からそっとだし、人知れず泣いた。すると優しかった母の面影が胸の中に鮮明に浮かんでくるのだった。

 今でもどうかするとあの母が暖かく微笑んでそのドアから入ってくるような気までしてくる。ヒナはマイナー思考の名人で、何かあると思いつめてしまう性格であったし、義母の千賀子がこの時ほど憎いと感じたこともなかった。

 

 そしていつの頃からか家族に対しての反発、反感が燻ぶり始めていた。そしてその抑えがたい感情は日に日に強くなる一方なのであった。父も母もユリもとても幸福そうなのに、自分は全然、幸せではない。希望なんてないのだ。見てくれも悪いし賢くもない。友達もいないし、彼氏もない。

 

 だがそれはサーカスという特殊な環境のせい(サーカス開演中はコンテナで生活するとか、転校を重ねるとか)もあったのだが、ヒナはそれをも家族のせいにして、なんとか三人の幸福を阻み、不幸にしてやりたいという恐ろしい思いに取りつかれているのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る