第36話 雰囲気

桜ちゃんの家から帰った後、ジムを覗きに行くと、奏介が一人でサンドバックを叩いていた。


黙ったまま中に入り、ベンチに座っていたんだけど、奏介は集中しているようで、私に気付かず、無我夢中でサンドバックを殴り続けていた。


『今までのは、ただの練習不足だったんだ』と思うほど、パンチ力も上がっているし、スタミナも上がっている。


雰囲気自体が大きく見え、『こんなにデカかったっけ?』と思っていた。



しばらく見ていると、すぐ横に置いてあったタイマーが鳴り響き、音を止めると、奏介は息を切らせながら振り返っていた。


「あれ? 来てたのか?」


奏介はそう言いながらベンチに座り、タオルで顔を拭き始める。


「何ラウンド目?」


「5。 もう終わり」


タイマーをリセットし、所定の場所に戻すと、奏介はスポーツドリンクを飲み始めていた。


「練習不足が解消されて強くなったんじゃない?」


思ったことを言うと、奏介はクスッと小さく笑い「まだまだ。 千歳の足元にも及ばないよ」と言い切っていた。


その後もトレーニングについて話していたんだけど、イラつくことも、喧嘩になることもなく、ごくごく普通に話しかけられていることに、ちょっとした疑問が浮かんでいた。


「私がマネージャー始めたとき、毎日イラついてたけど、あれってなんでイラついてたん?」


「ああ… 千歳と千尋が被って見えたから。 つっても、千尋の顔ははっきり覚えてなかったんだけどな。 当時、松坂にあいつを紹介された直後だったし、違うって思ってるんだけど、雰囲気が被って見えたし、練習不足で松坂に負けっぱなしでイライラしてた」


「あいつに紹介されたんだ…」


「そそ。 『中田英雄の娘なら知ってる』って言われて、紹介されたのがあいつ。 今考えればおかしいとこだらけだったんだよなぁ。 『試合中に大怪我したのがトラウマだから、ボクシングの話はしないでくれ』とか『広瀬は女性会員が多いから行くな』とかさ。 あそこ、ボクササイズに力を入れてるから、女性会員が多いんだよ。 バンテージの洗濯を頼んだら、絡まって切り刻まれた事もあったな。 どんどん違和感が大きくなって、あいつの定期を見たのが決定打になった。 『両親が離婚して名字が違う』って言ってたけど、下の名前は変わんねぇだろ?」


返す言葉が見つからず「そっすか…」としか言えずにいると、奏介は私の頭をグシャグシャっと撫で「本物が見つかったからもういいけどな」と笑いかけてきた。


「グシャグシャすんな」と言いながら立ち上がると、奏介は私の前に立ち「1位、おめでとう」と、優しく微笑みながら告げてくる。


その瞬間、胸の奥がギュッと締め付けられ、何も言えず、奏介から目を逸らすことしかできなかった。


『このギュッとした感じ、なんなんだろ? 不整脈? つーか、あいつ、雰囲気変わりすぎてない?』


そんな風に思いながら、1階にある更衣室に向かう奏介を眺めていた。



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