第27話 人違い

ジムの隅にあるベンチに座り、壁にもたれかかりながら顔を冷やし、ボーっとしていた。


リングの上では部員の一人が、智也君相手にミット打ちをしている。


『引っ越しかぁ…』


そう思いながらシューズを脱ぎ、ゆっくりと立ち上がると、ヨシ兄が「帰るのか?」と切り出してきた。


短い返事をした後、黙ったまま自宅に戻り、軽くシャワーを浴びる。


シャワーを浴びた後、鏡を見ると、左目の上が少しだけ腫れていた。


何も考えないままキッチンに行き、アイスバッグとスポーツドリンクを持った後、ゆっくりと自室に戻り、グローブとシューズの手入れをしていた。



手入れを終えた後、ベッドにもたれかかり、顔を冷やしながら壁にかかったグローブを眺めていると、1階から大勢の騒がしい声が聞こえてくる。


『また連れてきた… 好きだねぇ…』


軽く呆れながらボーっとしていると、ドアがノックされたんだけど、開ける気配がない。


不思議に思いながらドアを開けると、菊沢がトレーに乗ったケーキとアイスティを運んできた。


「これ、和人兄さんが…」


「サンキュ」と言った後、トレーを受け取ると「なんで言わなかった?」と切り出してきた。


「千尋じゃないから」


「間違えてるって言えば済む話だろ?」


「めんどくさい」


はっきりとそう言い切った後、トレーをテーブルに置くと、菊沢は小さくため息をついた後、囁くように切り出してきた。


「なぁ、男と女が部屋で二人っきりって、危ないと思わない?」


大きな掌で頬に触れ、顔を近づけてくる。


すかさず大声で「お父~~」と言いかけると、菊沢は慌てて私の口を手で塞ぎ「嘘です。 ごめんなさい。 ほんの冗談です」と、必死な表情で言い切っていた。


小さくため息をついた後、ベッドにもたれ掛りながら座ると、菊沢が小声で「覚えてない?」と切り出す。


「何を?」


「同じ小学校に通ってた事。 親父さんが初の防衛戦に勝った時、同じ学校だったんだよ。 俺、毎日、英雄さんの練習を見に行ってたし、そこで千歳の事も見てた」


「覚えてないし、人違い」


「いや、あの時と全く同じファイティングポーズだった。 たぶん、あの時流行ってたアニメの主人公が『千尋』って名前だったし、いつも『ちー』って呼ばれてたから、ごっちゃになったんだろうな」


「あっそ」と言った後、アイスティを一口飲むと、菊沢は「俺さ、中田ジムに移籍するから。 よろしくな」と言い切り、部屋を後に。


「はぁ??」


思わず声を上げたんだけど、ドアは既に閉まっていて、説明されることも、言葉が返ってくることもないままでいた。


『移籍するって、引っ越しどうすんの? しばらくは越さないってこと?』


どんなに考えても答えはわからず、かと言って1階にはみんながいるから行きたくない。


『何考えてんだ? あのクソジジイ…』


そう思いながらも、顔を冷やしながらグローブを眺めていた。

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