タワマン、メンヘラ、3億円。
燈外町 猶
第1話
「キミ、家出?」
簡潔に差し出されたその問いに、どう答えようか些か逡巡した。
家出、なのだろうか――現在私が行っている行動は。
あの凶暴な家から逃げ出してそろそろ三週間が経つ。くすねたクレジットカードを使ってファーストフード店とネカフェとスーパー銭湯で生を繋ぐ日々にも慣れて、感覚としては最早旅だ。
「……」
思考のせいで眠気が加速したのもあって、頷いてみる。
これまでの間、公園の隅で蹲る私へ下卑た男達から同様の問いは幾度ともなくされたが徹底的に無言を貫き、相手にも無関係を強要することに成功していた。
だが、現在私を下卑た目で見下すのは女。それも酒臭くはあるが、なかなかの美人だ。靡いても良いと思えるくらい。
「そう。被害届とか出そうな家庭環境?」
今度は首を振る。というかなんだその質問。素直に応えるやつとかいるのか? どうしても泊めてほしい人間は首を横に振るし、露骨過ぎる犯罪臭に怖気づいた人間は縦に振るだろう。
「なら都合がいい。なぁキミ、三億円あげるからうちに来るといい」
なんて下手くそな口説き文句なのだろう。それだったらまだ二万円とかの方が現実味がある。
――とはいっても、興味は唆られた。
街灯の作る影のせいもあるだろうが、深い深いくまが目立つそんな瞳で、ニヒルな笑顔と共にへんてこな台詞を吐かれては、付いて行きたくもなる。
それに相手は女だ、妊娠させられることもない。付いて行った先に撮影機材と屈強な男が五人くらいいるかもしれないが、もしそうだったら私の負けだったという話なだけ。
どうせこのまま緩やかな死を迎えるのならば、三億円に
×××
「はいこれあげる。だから
女に付いて行くと、この街のシンボルとも言える巨大なタワーマンションに辿り着く。
慣れた足取りでエレベーターに乗り込み、慣れた手付きで二十八階のボタンが押されたところで、私の今までの生活について聴取され、
おもっ。これプラスチックじゃないな。
「上限はないから三億でも四億でも好きに使うといい。あーでも家帰るなら置いていってくれ。いちいち停止処理するのは面倒なんだ」
あっという間に目的の階へと到着した頃には、私は目の前の女の異常性について若干の理解を得ていた。
危険性どうこうじゃなくて、関わっちゃいけない存在だったのかもしれない。
「はいどうぞいらっしゃい。今日からここがキミの巣だ」
エレベーターを降りてすぐ、鍵ではなく指紋認証で開かれたドア。廊下に漂っていた高級な匂いが一層きつくなる。
女に続き靴を脱いで部屋へ上がると、中から人の気配がした。足音がこちらへ向かってくる。
ああ、負けたか。何人の子供を産むハメになるのだろう。
「おかえりなさい
残酷な現実と未来に辟易していた私の視界に現れたのは、撮影機材と屈強な男達ではなく、お玉を持った小柄で可憐な少女だった。
「いーや、新しい家族だよ、
拍子抜けする私のリアクションを予想していたかのように、遠子と呼ばれた酒臭い女はウィンクをしてみせた。
「見てご覧この死んだ目を。まるで虚無を固めて作ったビー玉だ。コレなら君も怖くないだろう?」
酷い言われようだ。まだ会って三十分も経ってないのに。
「えと、あの……はい」
はいって。フォローするとかないのか。そんな赤面でもじもじしてないで。
「あっカレーが焦げちゃう」
持っていたお玉は寸胴をかき混ぜるためにあったらしく、冬音と呼ばれた少女はさっさと引っ込んでしまった。
「そんなわけで私の他に彼女も同居人だ。優しくしてやってくれ。ええと……名前、なんだっけ?」
自己紹介もまだだったか。というか私だって間接的に下の名前と思しきものを聞いただけで、未だこいつのフルネームは知らない。
「吾妻」
「ふんっ、それじゃあ名字か名前か、漢字すらもわからないが……いいね、ますます気に入った。きっとアズマは冬音と相性がいい」
再びウィンクで決めてきた遠子を無視して、私は新たな住処に足を踏み入れた。
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