通学路に立つ男

 一人っ子で母子家庭だったため、わたしと母との距離感は、一般家庭のそれよりもずっと近かったように思う。

 母は内向的なわたしをいつも心配していた。

 小学生の時、学校であまりうまくいっていないことを恐る恐る母に伝えたことがある。

 母はわたしを抱きしめると、

「話してくれてありがとう」

 そう言って頭を撫でてくれた。

「あなたはきっと大丈夫だから」

 何かにつけて母に相談した。

 嫌なことがあっても母に話すと気持ちが和らぎ、しばらくすれば不思議とその元凶はなくなった。

「母さんがついてるからね」

 その言葉から、いつも安心感と勇気をもらっていた。


 小学生の頃、印象に残っている思い出がある。

 わたしと同じ校区の子ども達が、何者かにさらわれる事件が続発した。

 幸いなことに数時間後には保護されたが、子どもたちの証言から、いたずら目的だったことが分かっている。

 犯人像は共通していたため、同一犯だと推測された。

 かわいい子犬を抱いたおじさん、ということだった。

 被害者が下校していると、子犬を抱いた男が現れ「抱いてみるかい?」と気さくに話しかけてくるという。

 子どもが子犬に興味を示して近寄ると、隣に止めてあった軽ワゴンに押し込まれるという手口だった。

 どうやら男は通学路の死角に車を止め、一人で歩く子どもを物色していたらしい。


 わたしは過去に一度だけ、その男に遭遇したことがあった。

 一人帰路についていると「ねえ」と急に通学路の脇道から声をかけられた。

 見ると、子犬を抱いた男が立っていた。

 真冬にも関わらず半袖姿で、くちゃくちゃとガムを噛んでいた。

 やや薄くなった頭髪の前髪はだらりと垂れ下がり、てかてかと脂光りしていた。その上に大粒のフケがまぶされている。

 気味が悪かったのでわたしはそのまま通り過ぎようとしたが、

「ねえ、触るかい」

 男が片手のひらに乗せた柴犬っぽい子犬を持ち上げる。

 その瞬間、子犬の可愛らしさに目を奪われた。

 手のひらの上で、尻尾を振ってわたしに愛想を振りまいている。

 驚いたのは、男がとてもぞんさいに犬を扱うことだった。

 幼児が貯金箱の中身を確かめるような動きでぶんぶんと上下に振る。


 その当時、子どもがいたずら目的でさらわれていることを学校側は伏せていたため、不運なことにわたしは事件のことも男のことも何も知らなかった。

 子犬の可愛らしさに抗えず近づこうとして、ふと男の視線に気がついた。

 舐めるようにわたしの下半身を這っている。

 特にスカートから覗いた脚付近にそれが集中していると分かった時、

 ――この男に近づいてはいけない。

 頭の中の危険センサーが点滅した。

 手を引っ込め「いいです」と踵を返した。

 わたしが逃げるようにその場から離れると、

「ああ、ちっくしょう」

 背中からこれみよがしな声が聞こえてきた。

 同時に、ガツンと固いものぶつかる音と、キャッと甲高い声がした。


 恐る恐る振り返ると、男の足元に子犬が横たわっていた。

 乱暴に振り回したぬいぐるみのように、手足はあらぬ方向を向いて途中で折れ曲がっている。頭の真ん中が割れて毛の間から真っ白な中身が覗いていた。

 男が犬を叩きつけたのだと分かった。

 絶句しているわたしの目の前で、さらに子犬を横の壁に蹴り飛ばした。

 壁に血と薄いピンク色の肉片を散らせ、そのままずるずると重力のままに垂れ落ちてぴくりとも動かなくなった。

 わたしは一歩も動けないでいた。

 すると男が、

「どうしたの? 大丈夫?」

 と話しかけてきた。

 こちらに一歩、歩み寄る。

「血、苦手なの?」

 男がさらに一歩、寄せてくる。特徴的な歩き方で地面を擦る。ぼろぼろの黒い靴が目についた。

 わたしは恐怖で下半身がぬるくなっていくような錯覚を覚えていた。

「足震えてるよ? 少し休んだ方がいいんじゃない?」

 あちこちにさまよわせていた目の焦点を、ゆっくりと男の顔に合わせる。

 男は微笑みながら脂ぎった前髪を手で横にかき分けている。

 だが突然真顔になると「おらっ」とドスの利いた声を上げ、素早い動きで右手をこちらに差し出してきた。

 全身が総毛立ち、わたしは弾けるように後ろに飛びのいた。

 そのまま振り返らずに疾走した。


 そこからはあまり覚えていない。

 気がつけば自宅玄関ドアの内側で立ちすくんでいた。

 しばらくして、内ももを伝うなまあたたかい液体の感触に気がついた。足元を見ると小さな水たまりができている。

 恐怖と恥ずかしさでひっくひっくとしゃくり上げた。

 お風呂場で、泣きながらスカートとパンツを洗った。

 途中から、急激に怒りが湧いてきていた。

 ――何なのよあいつ。気持ち悪い! 気持ち悪い!


 パートから帰ってきた母がすぐに異変を察し、一体何があったのかをわたしに尋ねた。

 さっき通学路で起こったできごとをすべて話すと、震えるわたしを抱きしめた。

「大丈夫。母さんがあなたを守ってあげるから」

 その日の晩は母の布団で一緒に眠った。

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