第11話 想いは届かない


 気がつけば、日はとっぷり暮れていて、自分は手桶を持って井戸の傍に立っていた。


「・・・はぁ」


 セイレーンは小さく落胆の息を吐いた。


 瞬きほどの一瞬前まで、外は夕暮れのオレンジ色に染まっていた。はずだった。


 手桶を持ち、奴隷頭から命ぜられた任を全うすべく、地下牢へ向かう階段を降りている最中だったはずなのに。


「・・・どうして、」


 少し泣きたくなったが、唇を噛むことで何とか涙が溢れるのをやり過ごした。


     ・・・


 コダに連れられて、原生林を逃げていたはずなのに、気がつけば、奴隷として首都ペルティナーキアへ連れてこられていた。


 訳が分からず泣くしかなかったが、泣いてばかりいると奴隷頭の大男に頭ごなしに怒鳴られた。怒られるのが怖くて、もう人前で泣くことはできなくなった。


 32番と呼ばれるようになったセイレーンに与えられた仕事は、地下牢の罪人の世話全般。


 しかし、捕らえられている漆黒の翼の男の清拭へ向かうと、必ず途中で記憶が途切れた。

 セイレーンはその男にまだ一度しか会ったことがなかった。


 黒い髪、黒い瞳。どことなくコダと面影が被る。楽しみのない毎日だったが、その男の存在は密かにセイレーンの心を踊らせた。

 しかし、再び出会うことは叶わず、今日もまた記憶を失くした。


「・・・」


 《自分》である時間が、目に見えて短くなっている。


 前向きに考えれば、人と向き合う機会を減らされているため、あまり怒られなくなった。不器用で要領の悪いセイレーンには都合がいいとも思える日も確かにある。


「・・・でも、」


 井戸の傍の排水溝に手桶の水を捨て、新たな水を井戸から汲み上げながら、歯を食い縛る。


 吸い込まれそうな真っ黒な井戸の底を覗かないように手桶に再び水を張った。その手桶を抱えて、セイレーンは記憶がなくなったためにどこまで終わったのかもわからなくなった仕事へ向うべく、再び地下牢の入り口に立った。

 

 地下へと続く階段をゆっくりと下ってゆく。青いカビ臭さが鼻を掠めて目を細める。


 外の明かりも届かなくなり、石壁に灯された蝋燭が時折舞い込む蛾を焼いた。


 ぽつりぽつりとしか灯されない心許ない明かりを頼りに壁に手を添えて階段を下る。だが足を滑らせ転びそうになり、セイレーンは階段に一旦腰掛けた。

 腰のカンテラを傍らに置き、火打ち石で火を点ける。片手に手桶、もう片方に淡く揺らぐオレンジの光を手に立ち上がり、階下を照らす。

 井戸にも似た深い闇が続いた。


 再び歩みを進めかけて、しかしセイレーンはその一歩を進められなかった。目眩がする。そのまま壁にもたれ掛かった。


(まただ。また、)


 俯き、微睡みに似た感覚に恐怖する。


 また、自分が自分でなくなろうとしている。

 

 セイレーンは固く目を閉じた。

 このままでは自分はパチンと消えて、いなくなってしまうかもしれない。


 震える声で小さく願ったのは、せめてまだもう少しだけ自分でいさせて、ということ。

「お願い。せめて、消えてなくなる前にせめてもう一度、コダさんに会わせて・・・っ」


     ・・・


 クツクツと、名も知らぬ情が込み上げてくる。

 肌を粟立たせるその血潮のざわめきを抑えきれず、プルウィウスは少し笑った。


 透き通るほど美しいその笑顔は聖母を思わせる。


 だがプルウィウスの心に渦巻いた想いは、深い緑色の濁りを帯びて、腐臭を放っているようだった。

 

「・・・」

 

 伏せ目がちな黄金色の瞳が、闇へと続く階下へと向けられていた。それは潤んで艶を纏う。


 体重を思わせない足取りで階段を下りてゆく。


 階段が終わると、遠慮がちな灯りが石壁に不規則に並んで通路の奥を照らした。苔むした石畳が整備されずくねくねと迷路のように続く。


 そのじめじめとした長い通路の最奥にたどり着くと、こちらに背を向け横たわる男の姿が見えた。

 

 毎日のように清拭を施すその男の背には漆黒の翼がある。

 その翼には、見えない小さな虫が無数に集っていた。


(呪われればいい。)


 プルウィウスは再び聖母のように微笑んだ。


「ニグレド、あなたがいけないのです。あなたが、私を見ないから。」


 ニグレドがプルウィウスの問いかけに答えることはない。漆黒の翼はぴくりとも動かない。

 プルウィウスの笑みは、そして静かに陰りを帯びた。


「あなたが、一度も私を見ないから・・・」



 ・・・およそ150年前。

 プルウィウスの死後、人間を駆逐するために地上へ舞い降りたニグレドにとって、弔い合戦はただの任務に過ぎなかった。


 命ぜられて振るう暴力に意味などない。


 だが、魂のみとなったプルウィウスにとって、人間を駆逐するその漆黒の翼は確かに希望だった。


 150年近い年月、繰り広げられているのはプルウィウス自身を慰めるための殺戮。

 裏切られることしか知らない黄金色の瞳には、それは愛を紡いでいるように見えたのかもしれない。


 純粋無垢であればあるほど、何色にも染まりやすい心根は、今や沼のように淀んでただ一人の男の視線を求めた。


(ニグレド。)


 プルウィウスは何度も心の中で呼び続けた。

 いつか振り向いてくれると信じて疑わなかった。 

 なぜなら彼は、自分のために人間を駆逐してくれているのだから。


「私のために戦ってくれているのでしょう?私のために。なのに、なのにどうして、あなたは私の方を見ようとはしないのですか・・・?」


 問い続けることで恋慕は深く濃くなるばかり。

 恋の病と呼ぶには遅く、既にその想いは醜く腐りかけていた。


 愛しても愛しても、自分の愛は誰にも届くことはない。

 尽くしても尽くしても、自分の愛は一度も報われることはない。


 汚れていくことが分かっていても、身体を捧げた。魂を捧げた。今も、昔も。

 なのに人間も、ニグレドも、誰も自分を愛してはくれない。


 その事実のみがプルウィウスの心を暗く占める。


 それでも、プルウィウスは今日も昨日と同じように手桶を片手にニグレドの元を訪れた。


     ・・・


 第二大隊情報部隊ウィリデ中隊01小隊への所属が決まったコダは二等兵となり、基地内に建てられている隊舎への居住が義務づけられた。


 狭いワンルームには二段ベッドが二台設置されている。その入り口から向かって右側、下段を居住スペースとして与えられた。


 肩に掛けられるだけの荷物しか持たないコダは、ベッドに備え付けられている小さな収納棚に支給された軍服などを納めていた。

 その時、上段に住まう兵士たちの話し声が聞くでもなく聞こえてきた。


「なあ聞いたか?今度の軍事パレードで漆黒の有翼人の処刑が決まったらしいぞ」

「みたいだな。けどそんなことすれば有翼人に報復されるんじゃないのか?」

「だから各大隊から有志を募ってるって話だぞ。手柄を上げれば出世も夢じゃない。俺は志願するぞ」

「そうか。そうだな。有翼人の処刑も見たいしな。よし、俺も志願するぞ」


(くだらねぇ。)


 コダは、黒地に小さな星が一つ付いただけの階級章を、少々乱暴に棚に投げ込んだ。

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