3.二階堂彩乃という少女

 二階堂彩乃の朝は早い。まだ日も昇らぬうちに目覚め、自室の鏡台で身だしなみを整えるのが日課だった。

 彩乃の長くふんわりとした黒髪は、櫛とブラシを丁寧にかけてもなお、そのボリューム感を失わない。本人はストレートヘアに憧れているのだが、その一方で自分の髪質が他人――とりわけ異性に魅力的に映ることも自覚している。


 鏡に向かって表情のゆるみが無いかを入念にチェックしていると、襖越しに人の気配があった。女中である月舘弥生――肇の母親だ。


「お嬢様、お食事の準備が整いましたよ」

「分かりました、今まいります」


 二階堂家では、一家揃って朝食をとるのが慣例になっている。遅れると、特に父がうるさい。彩乃は手早く寝巻からセーラー服に着替えると、いそいそと食堂へと向かった。

 屋敷自体は洋館だったが、彩乃の自室は離れの和室だ。寝巻も和装であるし身の回りの物も和風なもので揃えているので、セーラー服に身を包み本館へ続く長い廊下を歩いていると、自分自身が和から洋へと切り替わっていくような気分になる。


「お父様、お母様。おはようございます」

「おはよう」

「おはようございます、彩乃さん」


 食堂に着くと、既に彩乃の両親の姿があった。

 父は立派な髭をたくわえ、背広に身を包んでいる。まだ十分に若いので髭が似合っていないのだが、元子爵の家柄であり、今現在は貿易会社を経営しているので「貫禄が欲しい」のだそうだ。彩乃にはよく分からない理屈だった。

 母は普段着にはやや仰々しい藤色の小紋に身を包み、たおやかな笑みを浮かべている。彩乃とよく似た小柄で線は細いが起伏に富んだ体形をしており、若い頃は大層モテたそうだ。

 そして、食卓にはもう一人――。


「お嬢様! おはようございます!」

「おはよう、肇。今朝も元気ですね」


 彩乃のお付きであるサムライ見習いの肇だ。既に育成館の白い学ランに身を包み、行儀よく座っている。

 短く少し色の薄い、軽く巻いた髪の下には、彩乃の見慣れた人懐っこい笑顔が浮かんでいる。その姿はさながら主人を出迎える犬のようで、彩乃は「やっぱり、兄よりは弟ですよね」等と益体もないことを思ってしまった。


「さあさ、お嬢様もいらしたことですし、皆でいただきますをいたしましょう」


 彩乃の着席に合わせるように、食堂の隣にあるキッチンから浅葱色の着物の上に割烹着をつけた弥生が顔を出し、着席する。彼女は女中ではあるが、実質的には二階堂家の一員のようなものなので、息子と同じく主と共に食卓を囲んでいた。


『いただきます』


 長テーブルを囲んだ五人分の「いただきます」が食堂に響く。

 食堂自体はこれまた洋風だが、本日の朝食はどこに出しても恥ずかしくない和食だった――。


   ***


 朝食を済ませても、まだ登校までは時間がある。車の準備が出来るまでの間、その日の予習をしておくのが彩乃の日課だった。

 ただし、予習と言っても教科書や資料をパラパラとめくり、ざっと目を通すだけだ――否、


 理屈はよく分かっていないが、姫巫女やサムライなどの能力すなわち「霊力」に目覚めた者の中には、記憶力や理解力の著しい向上が見受けられるケースがあった。霊力に目覚めて以降、知力が大幅に向上するという事例があるのだ。高い霊力を持つ者はその傾向が強く、彩乃もそうだった。

 昨日、小町が驚異的な記憶力の向上を実感していたのも、それに起因する。もっとも、小町の場合はまだその特性を上手く使いこなせていないようで、記憶力に理解力が追い付いていないようだったが。


 対して、幼い頃より霊力に目覚め姫巫女になるべく育てられた彩乃は、その特性を使いこなしている。彼女の頭の中には既に、高校生程度までの学習内容が収まっているのだが――育成館での中学課程の指導も無駄とは思っていない。

 自らが紙の上から得た知識はあくまでも自分自身の主観に偏っているものだから、他人という別の視点から教えられることも重要である、という彼女なりの哲学があるらしかった。

 たとえ同じ内容であっても、見る者によってその捉え方は異なる。理解への筋道も異なる。彩乃はつまり、そういった個性を大切にする少女だった。


 ――その一環なのか、彩乃にはこの時代の少女らしからぬ趣味があった。毎朝の通学の車の中で、大手新聞四紙をざっと眺める、というものだ。

 一九五五年において、いわゆる「職業婦人」というのもは珍しくなかったが、それでも多くの人々が女性の社会進出に反発的であった。四年制大学への女子の進学率も男子には遠く及ばず、「嫁の貰い手が無くなる」と女性が高等教育を受けることを忌避する親さえいた。

 そんな時代において、十四歳ながらに新聞を読み込む彩乃の姿は、異彩を放っていた。実際、母親などは良い顔をしていない。けれども、仕事の関係から欧米諸国の文化を知る父親などは「大いに学びなさい」と言ってくれていた。

 だから、母には少し申し訳なく思いながらも、彩乃は父の方を尊敬していた――。


   ***


「あら、彩乃さま。ごきげんよう!」

「二階堂さん、ごきげんよう!」


 お抱え運転手の安全かつ快適な運転で育成館へと辿り着くと、同級生や後輩、先輩や教師たちが彩乃を出迎えるように挨拶をしてきた。いつもの朝の光景だ。

 彩乃は中学生クラスの代表であり、成績は常にトップ。姫巫女としての才能も高い有名人なのだが――生徒や教師たちが彼女に愛想よく接するのは、それだけが理由ではなかった。


 霊皇は世襲ではなく、その力が衰える前に後継者を指名し譲位する習わしとなっていた。今の霊皇はまだまだ現役だが、「その次」と目されているのが彩乃なのだ。

 今はまだ若輩故に正式な指名はないが、育成館を卒業する頃には、第一位の皇位継承権を与えられることはほぼ確実と噂されている。

 それ故に、今から媚を売ってくるものが絶えないのだ。当の彩乃は、そういった人々の行いをあまり好ましく思っていないのだが。


(まったく、困ったものですね)


 笑顔で「ごきげんよう」を返しながらも、彩乃の心は曇っていた。名だたる名家の子女でさえも、自分に媚びを売ってくる。その事実が悲しく思えたのだ。

 貴き血を持つ者には、それだけの品性が備わらなければ、と。だが――。


「ごきげんよう、二階堂の姫君、肇」


 そんな彩乃の心の雲を晴らすような存在が、育成館にはいた。媚びなど欠片も見せぬ実直な挨拶は、他ならぬ五ツ木安琉斗のものだ。

 育成館に通いながらも既に正式なサムライとして認定され、霊皇の側近を務める美青年。誰に対しても礼儀正しいが、彼がかしずくのは霊皇ただ一人。礼節と品性と、何より強さを兼ね備えたサムライの鑑。

 数年前に育成館で出会って以来、彩乃にとって安琉斗は太陽であり目標であり、何より好ましく思う異性であった。


「ごきげんよう、安琉斗さま」

「安琉斗先輩! おはようございます!」


 特上の笑顔を浮かべながら挨拶を返す彩乃。傍らの肇も、彩乃とは違う意味で安琉斗を慕っているので、ご機嫌な子犬のように人懐っこい笑顔を浮かべながら安琉斗と挨拶を交わす。

 彩乃にとって、育成館で最も尊いと思える一時だ。けれども――。


「お~い、待ってくれよアルト~! お、彩乃とハジメ、おはよう!」


 その尊い一時に、不純物が紛れ込んだ。言うまでもなく小町である。


「……小町さん、ごきげんよう。今朝もお元気ですね」

「小町さんもおはようございます!」


 不意に湧いた昏い感情を笑顔の下に隠しながら、彩乃が返す。肇も主の内面に気付いているのか、安琉斗へ返した以上に元気な声を出していた。

 ――柏崎小町。突然現れた編入生。貴き血を持つとは思えぬ、天真爛漫な少女。何故かスカートではなく、スラックスを着用している変わり者。……五ツ木家の居候。

 彩乃の脳裏に、彼女が知りうる限りの小町の情報が浮かんでは消えていく。まだ知り合って間もないが、彼女が悪い人間ではないことは分かる。彩乃のそれを告げている。

 だがしかし、だからと言って安琉斗と特別親しく、あまつさえ一つ屋根の下で暮らしているという事実をそのまま呑み込めるほど、彩乃は人間が出来てはいなかった。

 だから、意地が悪いとは思いつつも、彩乃は小町の落ち度を自然と探し始めていた。


「……あら、小町さん。タイが曲がっていてよ?」

「え? ……あ、ホントだ。カーチャンに結んでもらったんだけどな。窮屈なもんで、自然に緩めちまったか」

「服装の乱れは心の乱れ。育成館の一員として、気を引き締めなければなりませんよ? 少し失礼しますね」


 言いながら、手ずから小町のスカーフを直す彩乃。

 突然のことに、小町は赤面しながら全身を硬直させる。


(ふふ。公衆の面前で服装の乱れを注意される恥辱に震えてらっしゃるのね、小町さん)


 小町はただ、同性とは言えとびきりの美少女である彩乃に接近されスカーフを直してもらったことで緊張し赤面しているだけなのだが、彩乃は何やら頓珍漢な解釈をしてしまっていた。

 そんな主の空回りを、傍らの肇はハラハラしながら見守っていた。


(お嬢様、あれで意地悪をなさってるつもりなんだろうなぁ……)


 姉弟のように暮らしてきただけあって、肇は彩乃の性格をよく理解していた。一見、「完全無欠のお嬢様」に見える彩乃だったが、その実、少し天然なところがあるのだ。

 特に、自分と敵対する者、気に入らない者に対する言動に、それが顕著に表れていた。今、小町にやってみせたような行為がそれだ。


 本来、相手の至らぬところやマナー違反などを、公衆の面前で指摘し正すのは相手を貶めかねない行為だ。だから、彩乃も「意地悪な自分」を演出する為に相手の落ち度を指摘しているのだが……その物腰があまりにも柔らかな為、周囲にはむしろ「親切心の塊」「面倒見の良い少女」という印象を与えてしまっていた。

 何せ、小町のスカーフを直して見せたように、相手の落ち度を指摘しつつも手ずから見本を優しく示し、結果として相手のプラスになっているのだ。意地悪をして嫌われようと思った相手から、何故か逆に慕われてしまった、という事例も一つや二つではない。


 実際、小町などはすっかり彩乃へ憧れの視線を向けてしまっている。

 周囲で見ていた人々にとっても、「見眼麗しい少女同士の微笑ましい光景」としか映らなかったことだろう。


 二階堂彩乃という少女は、そういう人間であった。

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