2.これが霊皇!?

 御所の中は薄暗かった。灯りの類が何も点いておらず、引き戸の曇りガラスから差し込む陽光だけが、唯一の光源だ。

 三和土はあまり広くなく、小町達三人が一緒に立っているだけで手狭に感じるほどである。

 上がってすぐの所は板張りの廊下になっていて、それが左右に延びていた。玄関から見て正面には、白壁が鎮座している。

 安琉斗が革靴を脱ぎ廊下へと上がり脱いだ靴を丁寧に揃えたので、小町もそれに倣った。静香は一番最後だ。


「……で、これどっちに進めばいいんだ?」


 上がった所で首を巡らすと、左右に延びた廊下は、それぞれすぐに同じ方向へ折れ曲がっているようだった。つまり、建物の外周に沿うように廊下が巡っているらしい。


「左は陛下の私的な空間だ。右の廊下の先が『執務室』兼『謁見の間』になる。――行くぞ」


 暗闇が口を開けているような廊下の先へと、安琉斗が迷いなく進んでいく。

 小町はおっかなびっくりそれに付いていき、その後ろを静香が背中を押すように付いていく。小町の腰は完全に引けていた。


 曲がり角の先は完全な暗闇かに思えたが、何やらうっすらと明かりが漏れている。目を凝らしてみると、どうやら少し進んだ先に扉のような物があるらしかった。

 所々を金属で補強された、観音開きの扉だ。物々しいというか、おどろおどろしい雰囲気を小町は感じてしまっていた。


「この扉の先に陛下がお待ちだ。――ん? 小町、大丈夫か? 何やら顔色が悪いが」

「べ、別に顔色なんか悪くねぇや! っていうか、この暗闇でオレの顔色が見えんのかよ?」

「大丈夫なら良いのだが……」


 小町の強気な返答とは裏腹に、安琉斗の言葉は正鵠を得ていた。小町の顔色は、何か悪いものでも食べたかのように真っ青になっていたのだ。

 背中には大量の汗をかき、心臓は驚くほどに脈打っている。身体は寒気を感じ、今にもガタガタと震えだしそうだ。


(な、なんだ……これ? 緊張してるとか、そんなもんじゃねぇぞ、この寒気! この扉の向こうに、一体何が居やがるんだ)


 ――そう。先程までは小町自身も、「自分は柄にもなく緊張している」と思い込んでいた。

 けれども違った。扉一枚隔てた所に居るであろう霊皇に対して、小町の体中の「何か」が強い警告を発していたのだ。

 何を警告しているのかまでは分からないが、この扉を潜れば二度と後戻りはできないという、確信的な予感があった。


「小町。今から引き返しても良いのよ?」


 珍しく真剣な母の声が聞こえる。

 何故だかは分からないが、それは娘を気遣うものというよりも、ある種の念押しに聞こえた。


「……いや、大丈夫だ。行こう」


 小町の答えに、薄暗闇の中で安琉斗が頷いた気配があった。

 そのまま安琉斗はノックもせずに扉を押し開け――小町達の視界が広がった。


 そこは、思ったよりも広い部屋だった。

 十二畳ほどの板の間である。天井にも壁にも灯りの類は無く、ただ一つの光源は部屋の奥で鈍く輝く行灯のみ。

 行灯の付近は周囲よりも少し高くなっており、畳が敷かれている。


 そして、その畳の上に、彼の人物はいた。

 脇息きょうそく――ひじ掛けにもたれかかり、気だるげに小町たちを見つめているその人物。それこそが霊皇その人に他ならないはずだが――


「えっ!? あれが……霊皇?」


全く予想外のその姿に、御前であることも忘れ小町が素っ頓狂な声を上げる。


 だが、それも無理からぬことだろう。

 そこにいる人物は――霊皇は、。小町と同い年くらいの、質素な和服姿の少女だ。長く艶やかな黒髪が美しい、人形のような女の子がそこにいた。


「こら小町! 御前だぞ、失礼だろう!」

「ああ、良い良い。安琉斗よ、それが当然の反応じゃて――いかにも、ワシが霊皇じゃ。初めましてだな? 柏崎小町。待っておったぞ」


 小町の態度を安琉斗が慌てて注意するが、当の霊皇がそれを制した。

 見た目通りの少女の声色だったが、その口調はまるで老人のようであり、何より不思議な重厚さを感じさせる。


「そちらは……母親の静香だな? 一色の奥方と共に、何度か会うたことがあったかな? あの頃は、可愛い可愛い女中メイドさんじゃったか」

「……はい。直接お言葉を頂戴するのは初めてですが、何度か。再びお目にかかれて、光栄でございます、陛下」


 ラフな普段着のまま――しかし、良家の子女のような丁寧さで、霊皇と言葉を交わす静香。

 聖来と会った時以上の「らしくない」その姿に、小町はやはり気味の悪さを感じた。


「え~と……アンタ、じゃなかった、アナタが霊皇陛下、ですか?」

「無理に丁寧な言葉を使わずとも良いぞ? ここには我らしかおらん。楽にせい楽にせい。ささ、座るがよい。正座も必要ないぞ」

「え、いいのか? 助かるぜ……!」


 霊皇が良いと言うや否や、小町はたちまち慣れぬ丁寧語を捨て、いつもの口調に戻った。

 一瞬、安琉斗が剣呑な表情を見せたようにも見えたが、今はいつもの無表情だ。流石の彼も、霊皇の指図に異を唱えるようなことはしないらしい。


「ふふ、元気の良いことじゃ。――これならば、

「あ、後継ぎぃ!?」

「そうじゃ。一色の家を継ぐということは、その血を後の世に伝えるということ。当然、然るべき時がくれば産んでもらうぞ? ……なに、そう構えるな。何も今日明日にでも孕めと言っておるのではない」

「あ、当たり前だ!」


 「そもそも相手もいねぇのに」という言葉を飲み込みつつ、小町が顔を紅潮させる。

 自分が子供を産むなど、今まで小町は考えたこともない。その日暮らしのバラック街での生活の中では、そんな先の事まで考えて生きてなどいられなかった。


「ふむ。なるほどなるほど、どうやら何の覚悟も無しにここまでやってきたようじゃな。まあ、無理からぬことではあるが……。よかろう、改めてワシの口から、一色家を継ぐことの意味を教えてやろう――どっこいしょっと」


 見た目にそぐわぬ老人臭い掛け声と共に、霊皇が立ち上がる。

 ――小柄だ。小町も十四歳にしては小柄な方だが、霊皇は更に輪をかけて小柄だった。


「さて、華族制度はとうの昔に廃止されておる。だが、制度上の身分を失っても『貴き血』の価値が変わる訳ではない。一色家のような古い血筋なら、尚更のこと。その血を絶やすことは許されぬ。だからそなたを呼んだ」

「ん~、よく分かんねぇんだけど、さ。お貴族様ったって、ただの人間だろ? その子孫を残さなきゃいけないってのは、そんなに大事なことなのか? どうにもピンとこねぇ」


 嫌味ではない。小町は実際、不思議に思っているのだ。

 既に華族は法律上存在しないことになっている。支配層としての彼らがもういないことくらい、世間知らずの小町でも知っている。

 小町からすれば、今の日本に華族の血筋など必要ないように思えた。


「そうさな。既にこの国の仕組み上、華族などと言うものは必要ない――少なくとも、表向きはな」

「表向きは? なんでぇ、実は世間様に隠れて『やっぱりこの国は華族が支配していました』とでも言うのか?」

「ははは、三文小説のようなことを言うでない。安心せい、日本は既に民主主義国家。華族やワシが政治に絡むようなことはない――だがな」


 そこで一歩、霊皇が小町の方へと踏み出す。

 ――小町の体に、謎の圧力が襲い掛かる。


「この国の裏側――を支えるには、まだ霊皇や華族の力が必要なのだ」


 その時、小町は信じられないものを見た。

 霊皇の背後に、次々と青白い人影のようなものが浮かび上がり始めたのだ。

 それらはゆらゆらと陽炎のように揺れながらも、明らかな人の形をしている。それが無数に、立ち昇る湯気のように前触れなく現れた。


「――おい、陛下へーか……。その、後ろに浮かんでる連中は……なんだ?」

「ふふっ。こやつらが見えることこそ、そなたが『貴き血』を引いている何よりの証よ。――小町、こやつらはな」


 そこで霊皇は悪戯っぽい笑みを浮かべ、大仰そうに一呼吸おいてから、その言葉を口にした。


「俗に言うというやつよ」

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