十七、ジェミニ・2
生まれてきた赤ん坊のうち、一方は未熟児だった。致し方ない。本来、一人の赤子を育てる母体に二人分の命が宿ったのだから。母親からの養分を、胎内で奪い合って育ったのだ。
胎児の間の競争に勝ったのは僕だった。だから碧は未熟児だった。母親から与えられるものを、僕が独り占めしようとしたから。
今にして思う。そんなこと、しなければよかったのに。
赤ん坊の頃の記憶があるはずもなく、胎児に意思や感情があるのかも定かではない。ましてや将来を見据えて行動を選択するなんて、土台無理な相談だ。そこにあったのは、きっとただ貪欲な生存本能だったろう。そう、わかってはいるけれど。
未成熟で生まれ落ちた碧は、他者の助けなしには生きられなかった。別に、未熟児でなくとも赤ん坊はみな、他人の助けや庇護なくしては生きられない。けれども未熟児だった碧は、未熟児でなかった僕以上に、他人の助けが必要だった。それは深刻で、当然のこと。
助力を与えることと、愛情を注ぐことは、違うことだろうと思う。でも、よく似たことでもあると思う。碧はいつしか、愛されることを当たり前とする人間に育った。
僕とは違う。僕は、愛情を、他人の助けを、当たり前とはしない。
僕と碧が仮に駆けっこをして同時にゴールしたとしたら、見守っていた人は先に碧を褒めるだろう。僕と碧がもしも同時に転んだら、居合わせた誰かは先に碧を助け起こす。僕と碧が同時に激しく泣きじゃくったら、駆けつけた誰かは取り急ぎ碧を宥めようとするだろう。胎内で母親の養分を独り占めした僕は、みなの愛情という生きるための養分を碧に独り占めされる。先んじて選ばれるのは常に碧。僕は選ばれなかった側。
「何を難しいお顔をしているの?」
「え?」
花を編む碧の手元を眺めるうちに、知らず物思いに沈んでいたようだ。嫉妬深い卑屈な思考。
「なんでもないよ」
碧の声に現実へと引き戻された僕は、そう言って微笑みかけた。碧は、
「それなら良いの」と、満足げに笑みを返してくる。まるで僕の考え事など取るに足らないとでも言うように、深追いして訊ねようとはない。
関心がない。碧は僕に興味がない。他人の顔色など勘繰らずとも、自分が充分に満たされているから。
ああまた、卑屈な思考に取りつかれている。
「……今日は少し、気分がよくないみたいだ」
愛くるしい碧の笑顔からフイと目を逸らして告げた。
「そうなの? 珍しいこともあるものね」
碧は小首を傾げて言う。形ばかりは心配そうに、僕の顔を覗き込んだ。
ああなんて円らな瞳。濁りのない、輝きに満ちた碧色の宝玉。どうしてそんなに明るい色をしているのだろう。どうしてそんなに透き通って、純真そうな目をしているのだろう。どうしてそんな無邪気な顔で、無垢な声で、他愛なく言葉を発せるのだろう。
珍しくなんてないんだよ。
言ってやりたい衝動がわいた。だけど僕は口にしない。碧を傷つけてしまわないよう、意地悪な感情を胸の奥にしまい込む。
「ごめんね。大したことないから、気にしないで」
言われなくても気にしてなんていないのだろうけど。心の裡で付け加えながら、僕はまた微笑みを浮かべる。案の定、
「そう?」
碧はたったの一言で、心配そうなそぶりをやめた。膝の上で編んでいた花を投げ出し、碧は肩に巻いていたショールを脱ぐ。
「少し寒いわ」
シルクとカシミアのやわらかなその布を、碧は広げてひざ掛けに変えた。
「何をしているの。気が利かないわ。あなたも一緒に掛けるのよ。足先が冷えてしまってつらいのよ、早く温めて」
一瞬、碧が僕を気遣ったのかと思ったけれど、どうもそうではなかったらしい。白い靴下に包まれた足先を引き寄せて、華奢な両手でこすっている。ショールで隠れて見えないけれど、動きでわかる。つま先が細くなった可愛らしいエナメル靴は、窮屈だからと草地の上に脱ぎ捨てられている。
僕はショールの片側を引っ張って自分の膝にもかぶせ、その下で碧の足に手を伸ばした。碧の片方の腿の外側と、僕の片方の腿の外側がぴったりと寄り添う。でも、碧はふわふわとレースやフリルのたくさん付いたスカートをはいているから、感触は伝わらない。手のひらに包んだ碧の両足の先は、言葉通り冷たかった。
「気持ちいい。藍は子供みたいに体温が高いのね」
「『みたい』じゃなくて、僕らはまだ子供だよ」
「そうかしら」
グッと、碧が顔を寄せてきた。僕は上手く手が届かないふりをして、顔を伏せる。
(そうであればいいのにね)
耳元で囁かれた気がして、弾かれたように隣を見た。碧が目を丸くして驚いている。
「急に何よ。顎を打ちそうになったわ」
「今、何か言った?」
「何って何?」
碧はすぐさま僕が謝らなかったことに機嫌を悪くしたふうで、言葉とは裏腹に弁明を求めない突き放した声で言う。
ああ、こんな目つきも出来たのか。蔑むような、見下すような、冷ややかな眼差し。僕はそれに晒されて、項の産毛がそそけたつ感覚を得る。明るい円らな碧色の一対が、無機質に乾燥したひたすらに美しいだけの宝石に見える。なんて綺麗で傲慢なお姫さま。
壊してやりたい。
その碧色の宝石が、ひび割れて砕けて粉々になって輝きのないただの石ころになってしまうくらい、その心を破壊したい。心が毀れてしまうくらい、絶望の鎚を打ち下ろしたい。
「痛いっ」
小さな悲鳴で我に返った。
「酷いじゃない。爪が当たっていてよ」
つま先を包む僕の手を、碧は邪険に振り払った。包む、というよりも、僕の両手は碧のつま先を握りしめ、そのやわい足裏の皮膚に爪を食いこませていたのだった。
「ごめん、わざとじゃないんだ」
わざとではない。意図はしていない。だから嘘ではない。
嘘か本当かなんて、今更どうでもいいことなのに、僕は頭の中で弁解する。振り払われた手を所在なく彷徨わせて、碧の投げ出していた花の輪を草の上から取り上げた。器用に編まれている。春浅く、健気に咲いたばかりの花を集めて。
「似合うよ」
花冠なのかリースなのか、どういうつもりで編まれたのかわからない花の輪を、碧の頭にそっと載せた。
「ご機嫌取りのつもり? 私の作ったもので私にお詫びしようだなんて、ずいぶん手軽に片付けてしまうのね」
「そんなつもりじゃ……」
キッと睨みつける眼差しに言葉を塞がれた。僕はただ思ったことを言っただけだ。ああだけど、思ったままを口にするなんて酷いことをしたかもしれない。
碧は飾られた花冠を乱暴な手つきで毟り取り、草ばえの揺れる地面に叩きつけた。幾片かの花びらが散る。すでに死んでいる花だから、散ったところで悲鳴も上げない。そもそも花は声を出さないけれど。童話の中では歌ったりしゃべったり、かしましいのに。
ずっと昔、童話に出てくる雪の城の在り処を知ろうと、行き方を教えてくれるおしゃべりな花を二人で探したことがある。現実と創造の区別が曖昧だった頃、僕らは幸せだったのだろうか。碧は幸せだったのだろう。はしゃいで、僕の手を引いて、キャッキャと笑い続けていた。あの場所は、ちょうどこの草原の中だったっけ。朝早くに城を抜け出して、昼過ぎまでそうして過ごして、夕方には碧は発熱していた。ひどく叱られたのを覚えている。
「……本当に具合が悪いのね」
「え?」
また考えに没頭していた。ほったらかしにされた碧が、心配そうというよりもつまらなさそうな声を出す。
「戻りましょう。少し部屋で休むといいわ」
言うなり、碧はすっくと立ちあがり、僕の腕を取って急き立てる。急かされるまま立ちあがった僕は、ふうっと視界が白くなるのを感じた。足元がふらつく。咄嗟に碧の肩を掴みかけ、慌てて別な支えを求めた。だけど広い草原に木立はまばらで、春先の陽だまりで遊んでいた僕らのそばには一本もない。手を彷徨わせながらたたらを踏んで、眩暈を堪えようとした。
「いいのよ」
その時、風に混じって微かな声が耳を掠め、甘い香りと幾つも重ねられた布の感触、やわらかい締め付け。碧が僕を正面から、包み込むように抱き留めていた。
鼓動が近く感じられる。驚きと眩暈に思考が乱され、白く、暗く、空転する。重なった鼓動と同じ速さで、こめかみが脈打ち、頭が痛い。
「きっともう、潮時なんだ」
呟いたのは、どちらだろう――…
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