二年目 二月中旬 生物学者・矢野沙織

「DNA→mRNA→タンパク質」

 矢野はホワイトボードにそう書いた。

「これが生物学においてセントラル・ドグマ……つまり『中心となる教義』と呼ばれているものです。もっとも、現在では、生物の体内で起きている化学反応は、これよりも複雑であるという考えが主流ですが、あくまで基本は、こういう事です。この一方通行の化学反応が生物の体内で起きていて、それにより、生物の体が形作られ生命活動が維持される事になります」

 そこは国会議事堂内の一室で、説明している相手は政府閣僚や与野党の党首クラスの政治家達だった。

「DNAは……いわば……手順書の原本。mRNAは用が済めば破棄される手順書の一時コピー。タンパク質が手順書に基いて作られる最終成果物です」

「DNAとは……生命の設計図ではないのですか?」

 野党党首の1人が手を上げて、そう質問する。

「見方に依りますが……組立手順書 兼 運用手順書と考えていただいた方が、この後の話は判り易くなります」

「ちょっと待って下さい。それでは、遺伝子解析とやらの意味は何なんですか? DNAを解析しても……その生物の完成図が判るわけではない、と?」

「そうです。ある生物の遺伝子を全て解析して、遺伝子のどの箇所に、どんなタンパク質を作る手順が書かれているか、全て判明しても……それは、その生物の完成図……生物学では『表現形』と呼びますが……が判明した訳ではありません。完成図を欠いた組立手順書 兼 運用手順書の内容が判明しただけで、そこから、その生物の完成図を再構成出来るかは別問題です」

「つまり……その……ある生物のDNAを全て……解析しても……その……」

「その生物の完成図を作るまでの最初の一歩に過ぎません。やらなければ、完成図は出来ませんが、あくまで最初の一歩です」

 話についていけてない者。

 何とか理解出来ているらしい者。

 ひょっとしたら……理解出来てるフリだけをしているかも知れない者。

 その会議室に居るメンバーの表情は様々だった。

「植物や細菌まで含めると話はややこしくなりますし、例えば脊椎動物でも哺乳類とそれ以外では、これから話す仕組みは、異なりますので、これからの話は人間に限った事だとお考え下さい」

 矢野は、そう前置きした。

「DNAは『染色体』と呼ばれる単位で細胞内に存在しています。人間の場合は、23種類が2組の計46個です。その内、22種類44個が常染色体、残り2個が性染色体と呼ばれます。人間は両方の親から23個づつの染色体を受け継ぎます」

「えっと……高校の生物の授業では……親が持っている2組の内のどっちを受け継ぐかが、子供によって違うので、兄弟姉妹でも、性別や生まれ付きの性質が違うと習った記憶が有るのですが……」

 野党党首の1人が、おずおずと手を上げてそう言った。

「その通りです。同じ両親でも、一卵性双生児を除いて、全く同じ遺伝情報を持つ子供が生まれる確率は……2の23乗分の1……とんでもなく小さい確率です」

「なるほど……私には子供が3人居ますが……何となく、その事は実感してますよ。で……その性染色体というので性別が決まる訳ですか?」

「はい。性染色体は大きく2種類有り、1つはX染色体と呼ばれ、もう1つがY染色体と呼ばれています。顕微鏡で見ると、丁度、XとYに見える形をしている為です。そして、女性はX染色体を2つ、男性はY染色体を1つとX染色体を1つ持っています。そして、父親からX染色体を受け継いだ場合は女性にY染色体を受け継いだ場合は男性になります」

「う……うん……ちょっと待って……よく……」

「だから、こう云う感じだよ」

「え……あ……うん……? えっと……ああ、何となく判った」

 閣僚の1人の質問に対して、横の席に居た野党党首が自分が取っていたノートを見せる。

「ただし、X染色体とY染色体では……遺伝子に含まれる情報の量が違うとされてきました」

「へっ?」

 矢野は再び「DNA→mRNA→タンパク質」と書かれたホワイトボードを指差す。

「人間を含めた多くの生物で、このプロセスに関与している事が判っているDNAは、その生物が持っているDNAの一部です。残りは……何のタンパク質も生み出せないDNAです。そして……人間の性別を決める染色体の内、Y染色体は、性別を男性にしたり、男性特有の機能……例えば精子を作る……などの関与するものだけで、大半が意味のないDNAです」

「ちょっと待ってくれ、Xとかいう、もう片割れは……違うのか?」

「はい。X染色体には、性別を決める遺伝子以外にも、例えば、目が色を判別するのに必要な遺伝子も含まれています。赤と緑を識別しにくい人が男性に圧倒的に多いのは、女性は片親から受け継いだ遺伝子に、そのような異常が有っても、もう片方の親から受け継いだX染色体の当該遺伝子が正常なら赤と緑を識別出来ますが、男性はX染色体は1つだけなのでバックアップが無いからです」

「それで……議題である、いわゆる『特異型男性』のY染色体の異常ですが……つまり……?」

「はい。『特異型男性』に特有の遺伝子変異は……何かの機能を持っていた遺伝子が変異によってその機能を失なったのではなく、逆に何の機能も無かった遺伝子が何らかの機能を持つようになったものです」

「え……えっと……つまり、何が言いたいのかね?」

 そう質問したのは総理大臣だった。

「だから……人間の体を工場なんかに喩えると、こういう事でいいですか? 流れ作業の手順が1つ増えた。しかし……それが流れ作業全体や出来上がる製品に、どんな影響を与えるかは……すぐには判らない、と」

 野党党首の1人が、そう補足した。

「そうです。しかし……」

「しかし?」

「そのタンパク質が影響を与える臓器や器官の候補は、いくつか出ています。今、最も見込みが有りそうなものが……神経系と免疫系です」

「神経系という事は……脳かね?」

「正確には違います」

「でも……神経って要は……その……」

「むしろ、2つの有力候補は両方とも

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