一年目 十二月中旬 生物学者・矢野沙織

『いや、ニュースで矢野さんの名前を見た時は驚きましたよ』

 矢野は学生時代の研究室の後輩だった黒田礼子とビデオ会議アプリで話しをしていた。

「成行きで、あの件の調査委員会の座長になっちゃってね。信じられる? あたしの直属上司は首相か官房長官だよ?」

『え〜、大学の頃は、オタ系サークルの女会長だった人がそこまで出世するなんて……』

「で、そのオタ系サークルの後輩にしか聞けない話が有んの。どうしても疑問なんだけど……調査委員会の人は真面目な人ばかり選ばれてるみたいだしね」

『ああ、なるほど、矢野さんは学生の頃にSF研究会に入ってた事がバレてない訳ですね』

「概ね、そう言う事。で、院生の頃に『進化論は間違ってる』系のトンデモさんとやりあってたあんたに訊きたい事が有ってね」

『何ですか?』

「何で、今回の件に関する陰謀論が出て来てないと思う? SNSなんかを調べても……ここまで静かだと……逆に気味が悪いよ」

『トンデモさんってのは……さんなんですよ』

「へっ?」

『例えば、あたしら専門家でも引っ掛かるような偽論文が有ったとしますよね? これ、素人を数多く引っ掛けるのに向いてると思いますか?』

「えっと……どうだろ?」

『トンデモな主張に数多くの人を引っ引っ掛ける為には、その前段階として引っ掛る何倍もの人にトンデモな主張に注目してもらう必要が有りますよね? でも……』

「なるほど……。専門家でも引っ掛る偽論文に注目するのは……専門家だけか」

『例外としては……その偽論文の内容を素人でも理解出来る「物語」に要約出来た時ぐらいですよ』

 矢野は……自分の専門分野で起きた有名な論文捏造……〇〇ゼロゼロ年代に韓国で起きたものと、二〇一〇年代に日本で起きたものを思い出していた。

 たしかに……両方とも論文の内容を素人でも理解出来る「物語」に要約出来るようなモノだった。

「つまり……そう云う例外を除いては、玄人でも騙せるトンデモ理論を頭を捻って考え出すのは……労力の無駄だって事?」

『そう云う事です。流行ってるインチキ新興宗教に限って、宗教マニアやオカルト・マニアからすれば「内容が薄い」し、言ってる事も小市民的な通俗道徳に宗教のガワを着せたようなモノばかりなのと同じ理屈です。素人を数多く引っ掛けたけりゃ、頭や時間を使ってオタク受けするモノや玄人でも騙せるモノを考えるのは……労力の無駄ですよ。

「じゃあ……私が関わってる件で、まだ、陰謀論とかが出てないのはさ……」

『多分ですけど……まだ、誰も素人にも理解出来る「物語」に落とし込めてないからじゃないですかね? 仮に、人類が近々滅亡するなんて話が有っても……滅亡するまでの過程や理屈が難しければ、誰も、どう反応していいか判らない』

「じゃあさ……誰かが、この件を判り易い『物語』に落とし込む事に成功したらさ……」

『多分、そん時が……矢野さんが関わってる件に対する陰謀論誕生の瞬間……いや待って下さい』

「どうしたの?」

『やな想像が浮かんだんですけど……』

「何?」

『矢野さんが関わってる件に……判り易い呼び名や略称が生まれたら……その時を契機に、この件に対する陰謀論が大量発生し始めるんじゃないか? とか思っちゃって……』

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