一年目 四月中旬 生物学者・矢野沙織

「ったく、私に、何をしろ、って言うんだよ?」

 都内に有るO大の理学部生物学科の准教授である矢野沙織は、半月前、C県K市のJ医大病院で死亡した男性の体のサンプルの分析結果を見ながら頭を抱えていた。そもそも、死亡した「何か」が人間か否か、それ以前に通常の意味での「生物」かどうかさえ不明であり、性別と云う概念が適応出来ない存在である可能性も高いので、「男性」と呼ぶ意味が有るのかさえ微妙だが、ともかく人間の男性に擬態していたらしい「何か」だ。

 現状、あの「何か」については報道規制が行なわれて、存在を知っている者達の間でも「Unknown」とだけ呼ばれている。早い話が存在を知っている者達の間でさえ「正体不明」を意味する言葉が通称と化してしまったのだ。

 あの際に起きた事は医療事故とは呼べない。

 かと言って、殺人では無い。アメリカなどでは、重過失で人を死なせた場合も「殺人罪」が適応される場合が有るが、日本の刑法においては「未必の故意も含めた殺意」が存在しなければ「殺人」ではない。ついでに、殺されたのだと仮定しても、「殺された」のが法律上の「人間」なのかは議論の余地が大いに有る。

 死亡者が法律上の人間の要件を満たす存在だと仮定して、無理矢理、刑法上の罪を適用するなら、強いて言えば過失致死だが、人間の男性にしか見えない外見で、人間の男性だと判断するのが妥当な振る舞いをしている「何か」に医療検査を行なったら、化物としか呼べない姿に変貌して死亡(おそらく)するかも知れない、などと云う状況を想定した過失致死系の罪名など存在しない。

 つまり、大事件なのは確かだが、警察が担当すべき事なのかさえ曖昧なまま、複数の官公庁で、どこが、どのような形で、この「事件」を担当するか喧喧諤諤の議論が行なわれ、ようやく、「事件」の翌月になって、複数の官公庁・大学・研究機関からの出向者達により、総理大臣直属の調査委員会が極秘裏に作られた。

 なお、Unknownの「遺族」には警察および病院から「入院中に病院を抜け出し、行方不明となった。現在、捜索中」と説明されている。

 そう、Unknownが仮に生物学的または法的に「人間」と呼べなかったとしても、現在、発見された唯一のUnknownは人間としての生活を送っていたのだ。

 四〇代の男性サラリーマン、結婚しており、子供は男女1人づつ。岡山県に両親が健在で、大阪に姉とその夫や子供も住んでいる。税金その他も納めており、戸籍や住民票にも不審な点は無い。前科は罰金や注意で済む交通違反ぐらい。

 つまり、人間に擬態している何かが存在しており、その「何か」は、発見されて既に死亡(多分)している一体のみとは限らない。もし、死亡(多分)したもの以外の個体が存在していた場合、それらが、人間社会に対して悪意を持っているのか、それとも、普通の人間として何のトラブルも起こさず生活する事が望みなのか、はたまた、自分達を人間だと思い込んでいるのかさえ不明なのだ。

 そして、調査委員会が設立されて数日後、各分野の科学者に秘密裏に「死体(多分)」の分析の依頼が行なわれ、「死体(多分)」の一部が送付された。ただし、依頼された科学者達からすれば、「コンタミネーション」と云う言葉を知っているかも怪しい人々によって雑に扱われ、それから半月以上、これまた、かなり雑な方法で冷凍保存されていた未知の生物(多分)の死体(多分)の一部を送り付けられても、本気で何か判ると思っているのか? と云うのが正直な気持ちだった。

 例えば、サンプルを顕微鏡で見ても、判るのは、おそらくは冷凍保存のやり方がマズかったせいで、細胞組織が壊れている事ぐらいだった。

 そして、化学的に分析しても、「体を構成している化学物質は、一般的な哺乳類と、それほど変りません」ぐらいしか報告する事は無い。

 その時、矢野のスマートフォンが着信音を鳴らした。

「あのぉ……矢野先生」

 相手は、この事件の調査委員会に出向している下っ端の官僚だった。調査委員会の中での役割は「何でも屋の雑用係」。

「どうしたの?」

「新鮮なサンプルが複数体、入手出来ました」

「はぁっ? ちょっと待って下さい。どうやって手に入れたんですか?」

「……私の権限では知る事は出来ません。それで察して下さい」

「どう云うサンプルですか?」

「後で詳しい資料を送りますが、全て、日本人または外国籍の日系人の成人男性です。……もしくは、日本人または外国籍の日系人の成人男性に擬態していた個体です。成人男性と言っても、年齢はバラバラです。そして、正体を現わす前にDANサンプルを入手していますが、そちらも送付いたします」

「なるほど、で、送られてくるサンプルに成り損なった人のデータは有りますか? 比較の為に必要になりますから」

「えっ?」

「やったんですよね……」

「やった、と言われますと……」

「2つの意味ですよ。文字通り『何かをやった』と、誰かを殺したと云う意味と」

「え……っと……」

「死んでもごまかしが効く、おそらくは複数の『誰か』を最初のUnknownが死んだのと同じ条件に置いてみた。違いますか?」

「すいません、本当に知らないんです」

「じゃあ、貴方の上司に掛け合って下さい。Unknownのサンプルだけではなく、Unknownでは無いと確実に言い切れる人のデータも必要だ、と」

「えっ? ちょっと待って下さい。Unknownじゃない人間なんて、そこら中に……」

「あのねぇ……この社会に人間に擬態して、人間としての生活を送っている『何か』が居るのなら……私や貴方が、その『何か』では無い、と言い切る自信は有りますか?」

「いや、だって、少なくとも私は人間……」

「本当に? 最初に発見されたUnknownは普通のサラリーマンであり、どこにでも居る夫にして父親としての生活を送っていたんですよね?」

「は……はい、調べた限りでは……」

「じゃあ、Unknown自身が、自分を『普通の人間』だと思っている可能性も考慮した方が良い。違いますか?」

「ま……まぁ、確かに、その可能性も考慮しないといけませんね」

「そして、もう1つ。もし、Unknown自身が、自分を『普通の人間』だと思っていたとしたら、別のもっと重大な事が起きている可能性も考慮しないといけませんよね?」

「えっ……えっと……これ以上……何を……?」

「自分を人間だと思っているUnknownが、この社会における多数派では無いにせよ、危険な存在として排除するには多過ぎる数存在していたり、排除困難な社会的地位にある可能性ですよ。貴方達の上の方は、例えば、閣僚や皇族や、日本に来る可能性が有る外国の要人がUnknownだった場合にどうするかも、ちゃんと考えるつもりなんですよね?」

 翌日、東京拘置所と茨城県牛久市の入国管理センターの収容施設で集団食中毒が起きたと云うニュースが報道された。

 どちらでも食中毒による死亡者が複数名出たが、何故か、東京拘置所での死亡者は全て男性の死刑囚であり、入国管理センターの収容施設で死亡した者には、日系人と思しき名前の男性と云う共通点が有った。

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