第2話 錦江湾

静子がオーダーしたマンハッタンに沈むオリーブが、彼女の唇へと運ばれる度に可愛らしくグラスの中で揺れている。

私はつまみのチョコレートを口に含ませて、有村君の苦労話と静子の上品な笑い声に耳を傾けながらも、心ではこうも思っていた。

ビールとホッケの塩焼きが食いたい。

その日を境に私と静子は連絡を取るようになって、幾つものデートを重ねては次第に深く結ばれていった。

静子の妊娠を知ったのは、三浦海岸の夕陽に染まる砂浜で寝転がっている時だった。静子が申し訳無さそうな顔をしていたのが忘れられない。


「結婚しよう」


私は素直な言葉を口にした。

こうして目を閉じていると、私の頭の中で厳選された思い出だけがよみがえる。あの日に口にしたスッコチウイスキーは、未だに私の舌には馴染めないだろう。

ホテルのラウンジから眺める故郷の夜景と、窓に映る年輪を重ねた自分の顔が歪んだ世界を創り出している。

私の身体に一本の皺が刻まれる毎に、昔話は忘れられてしまう。

いずれは私の存在も、そして妻や子や姉や弟、それに死んだ母の存在さえも消えて無くなってしまうのだ。

それはとても恐ろしい事に思えた。

私は得体のしれない不安をビールで流し込みながら、幾度も感傷に浸り続けていた。

一日の無駄な時間が、ホテルという世界の中で過ぎ去ろうとしている。

錦江湾の穏やかな波を受けて、フェリーは桜島へと向かって行く。

私の眼前に雄大に聳える活火山は、山頂から噴煙を立ち上らせて侵入者を拒んでいる。

船の食堂でうどんを注文し、コンビニエンスストアで買っておいたおにぎりと一緒に頬張る。

うどんの味は昔の頃のままで、つゆのしみ込んだ薩摩揚げが香ばしい匂いを放っていた。

私は腹が空いていたせいもあって、貪るようにそれらをたいらげた。

桜島からバスに乗って、海岸沿いの県道を進む。

島の地形は緩やかな弧を幾重にも描き、海と空の青を突き抜けた。

私は再び、厳選された思い出に浸っていた。

幼い頃、桜島にはよく家族で出掛けたものだ。

母は車の助手席でうたた寝をして、後ろの席では私と姉と弟が景色を奪い合いながら笑っていた。

免許を取得したばかりの父親が (私にとっては親ではなく、単なる父に成り下がってしまったのだが) その腕前を披露したくて企画した小旅行は、私たち子供からしてみれば楽しい行事の一つだった。

父は自慢げに。


「友達の中で車を持っているのは、お父ちゃんぐらいなもんさ」


と言っていたが、私はその顔もその声も思い出せなかった。


バスは観音崎を過ぎて、古里温泉の老舗旅館の佇まいを横目に垂水へと入って行く。

自衛隊の戦闘機が、爆音を撒き散らしながら遥か雲の彼方へと消えた。

バスの長旅は私を疲れさせ、遠い昔に捨て去った記憶をも呼び覚ましてしまった。

酒が入ると暴れ、愛人を囲い、ギャンブルが好きで、計画性のない事業を始めては多額の借金を母に背負い込ませた父。

あの日も母を殴り飛ばして、愚か者の声を張り上げていた。


「出張だって言ってるだろう! 何度も同じ事を言わせるな!」


母が号泣している姿を見たのは、この時が初めてだった。

私たち兄妹は部屋の隅で震えていた。


「ホントの事を言ってよ、多過ぎるのよ出張ばかり! この子達にも食べさせていかなきゃいけないし、あたしだけならまだしも…」


「そんなに俺が信用出来んのか!」


「あたしは子供達の事が言いたいだけよ」


「ガキを盾に使いやがって…」


父は、鏡台のスチール製の椅子を振り上げた。

私も姉も弟も、泣きながら 「やめて」 と叫んでいた。

これが父なのだ、私が恥ずべき父なのだ。

記憶が容赦なく私の脳髄を揺さぶる。

母が私達の前に倒れて、畳一面に真っ赤な血の海が広っていく。

「人殺し!」 「人殺し!」 子供の私にはそれしか言えなかった。


父は青ざめた顔で、母を助ける訳でもなく部屋から出て行ってしまった。

姉は動かない母の身体を揺すって、私と弟はただただ泣いた。

畳の血溜まりに、姉の足跡が出来てはすぐに消えていった。

私は今、そんな愚かな父に会いたがっている。

自衛隊の基地を過ぎて、バスは鹿屋の市街地へと進んで行く。

市役所や商店が立ち並ぶ通りの、二つ目の停留所で私はバスを降りた。

肝属川の清流は岸辺の緑を延々と映している。

私は公園のブランコに腰を下ろしてそよ風を浴びた。

高隈山地は私の目線の先にあって、その山岳群の圧倒的な威圧感に私はしばし見惚れていた。

朝から照りつける太陽の下で、狭すぎるブランコに身体をおさめている私は何と滑稽なのだろう…。

胸ポケットの中で振動を続ける携帯電話を無視し続けながら、公園で遊ぶ母子の姿に目を移す。

若い母親が作り出すシャボン玉を、無邪気に追っ駆けまわす子供の愉快な声が響いている。

私はその危なっかしい歩幅に微笑んでいた。

携帯電話の着信履歴には 「静子」 の文字が示されていて、添付されたファイルを開くと娘の笑顔が画面いっぱいに広がった。

不揃いな歯並びと幼いものの言い方やしぐさがとても愛らしい。

私は家族を思いながら歩き出した。


ブランコが耳障りな音を響かせて、私の背後で揺れている。

妻や子供に不自由な生活をさせてはいけないと、私はがむしゃらに働いた。月に一本の夫人雑誌の連載を抱えて、新作の短編集の執筆にも取り組んでいる。著名なコンテストの受賞経験はなくとも、私なりの働き方で、昔のような貧乏暮らしに転落する事はなかった。

夫婦喧嘩も一度だってした事はなく、家族との時間も大切にしているつもりだ。

死んだ母が最後に言い残した言葉。


「あなたたちの親で本当によかったよ。ありがとう…」


私もかくありたいと思っている。

笑顔の絶えない幸せに満ちた家庭を望んでいる。

それは誰しもが思う事であって、特別なものではないだろう。

私の家族は今幸せなのだ。

それは永遠に継続させなければならない。

なのに、心に吹き荒む不安を拭い去る事が出来ないでいた。

父親という存在に恵まれずに生きて来たのだから仕方のない事かも知れないが、私には自信というものが欠落していた。

母もそうだったのだろうか…。

私は今になって思う。

もう少し、母と話をしておけばよかったと。



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