遠い故郷

みつお真

第1話 さがしもの

三回忌を迎えた翌日。

私は私を探していた。

南の風、潮のにおいに混ざったかすかな硫黄臭とアスファルトのぬくもり。それらが私の想い出をあぶり出してくれている。

桜島の雄々しさと緩やかに流れる時間、線路に積もった火山灰のせいで火花を散らしながら走る路面電車、それを追い越していく自家用車―。過去の映像とすっかり様変わりした現実が私の記憶の整理を遅らせてゆく。

母のアパートは港のすぐ側に建っていて、クリーム色のポストは錆が異様に目立っている。

潮の風は観光客の心は慰めてくれても、私の感情までは癒してはくれなかった。

木造モルタル二階建ての質素なアパートを取り囲む石塀の上で、尻尾が千切れた猫が居眠りをしている。

完全に人に懐いてしまった野良猫だ。母はこの猫に朝夕と餌を与えて、ミーコというありきたりな名前をつけていた。

ミーコは私の存在に気がついたが、すぐにまた身体を丸めて気持良さそうに眠ってしまった。

赤茶けた屋根の上のアンテナ。塗装の剥がれたサッシ。鉄製の階段を上って行く私の足音が辺りに乾いた音を響かせている。

私は洗濯機の置かれた狭い通路を進んで行く。とても短い距離だ。昔はあんなに長く感じていたものなのに―。

奥の部屋の前で立ち止まって鍵を開けた。

幼い頃と同じ右の手で。


畳が取り払われたコンクリートの床には桜島の火山灰が白く積もっていて、私が歩を進めると風に舞って散っていった。

西日が差し込む室内は、強烈なオレンジ色が土壁に反射している。

靴を脱がないままで、私はがらんとした部屋にあがった。

家族の歴史を刻んだ台所の流し台。

私は幼い日の記憶を再びたどる。

母の作る唐揚げが大好きで、この粗末な台所でよく駄々をこねたものだ。

擦りガラスの引き戸も取り払われていて、私のブーツはいとも簡単にかつての居を踏み越える。

カーテンもない、電気も点かない、会話もない、それでも思い出溢れるこの部屋の記憶を、私は懸命に呼び起こしている。

大きすぎるテレビの置いてあった場所。家族で囲んだコタツの温もり。布団の色。煮物の香りと母の味。

土曜日の夜に大笑いした番組や、足しげく通った銭湯。

押入れの柱には、動物のキャラクターのシールが貼られてある。

それは色あせてほんの一部分しか残っていなくとも、間違いなく私と弟が貼り付けたものだ。

壁の落書きは姉のもの。姉は私や弟の代わりによく怒られていた。


窓の外は駐車場になっている。


弟と追いかけっこをしたり喧嘩をしたりと思い出のある場所だ。

母と姉は夕食時になると窓を開けて、ふざけ合う私たちの名を呼んだ。

私にとっては、それがいちばんの幸福だった。

四十歳を迎えた私の老けた両耳に、遠くの小学校のチャイムの音が聞こえている。

この音だけはかわらない。

私は自分に問いかけた。

自分はどれだけの人間になったのだろうか…。

職業作家としてある程度の生計を立てられるようになっていても、心のどこかに隙間風が吹いていた。

それは私を悩ませて、意味もない涙を時折流させる。

妻と子と、見栄えの良いマンションを手に入れても、どこか薄ら寒い感覚は拭えなかった。

私は家庭に憧れているだけではないか。

理想という虚構の世界に溺れて、底なし沼へ身体が沈み込んでいく恐怖は、命尽きるまで続くノンフィクションからの離脱願望。

それに、私は空想の世界に身を置くことを選んだ人間なのだ。非力で軽薄な人生に嫌気がさしたちっぽけな存在―少なくとも、子供が産まれるまではそう思っていた。

立派な夫、尊敬される父になれるのだろうか。

疑問だった。

母が死んで家主がいなくなったこの部屋を、思い出という存在に依存しながら私は借り続けている。

そこに行けばどんな事でも笑い流せる気がしたから、私は手放さないでいた。

だがそれももう限界なのだ。

このアパートは取り壊されて、鉄筋コンクリートの高層マンションへと生まれ変わる。

忠告なのかも知れない。

私は遠い記憶にすがりついているだけの男なのだ。

愚かさに目まいを覚え、私は足早に部屋を出た。

そしてホテルへ戻ると、東京に残してきた妻に電話をかけた。

妻は明るい声で娘の事を話してくれている。

その後ろで、元気な声が私を呼んでいる。

幸せなのだ。私は幸せなのだ。

そう実感しながらも、私の心にまた隙間風が吹いていた。




母が死ぬ二年前に、私は妻の静子と知り合った。

中学時代からの悪友である有村幸太郎君の紹介で、中目黒のキャプランというバーで最終電車がなくなるまで酒を飲んだ。

この店に通っていたのも遠い昔の事だ。

私と有村君は学生時代の思い出話に花を咲かせては酔っ払った。

静子は知らない話を嫌な顔をせずに聞いていて、私はその肌理の細やかな白い肌と清純な人柄に心を奪われた。

有村君はスコッチウイスキーをストレートで飲んで、私もそれに習って口をつけた。もともと酒をあまり飲まない私には、その味があまりにも異質な存在に思えた。




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