第3話百人屋敷
定火消の隊長に貸し与えられる屋敷は、通称百人屋敷と呼ばれる。百人の部下が集まれるほどに大きな屋敷だからだ。普通はその屋敷は隊員たちによって手入れされている。青龍隊の屋敷も常に隊員と訓練生によって常に維持管理がされていた。おかげで常に綺麗な状態を保っていた屋敷が、今更ながらに涼太は懐かしくなった。
鴉隊の百人屋敷は全く手入れがされておらず、雑草が生え放題となっていた。廃墟のような屋敷の姿に、思わず涼太は顔をひきつらせた。もしも、幽霊や妖怪が出るとしたらここ以外にないだろうという荒れっぷりである。この屋敷に人がいることが、信じられないほどだった。
近所の子供は肝試しに来ているかもしれないと涼太は考えつつも、その屋敷に一歩踏み入れた。歩行を邪魔する雑草をかき分けて、涼太は進む。しばらく荒れ放題に庭を進むと、同じように荒れ放題となった屋敷にたどり着いた。一瞬だけお岩さんでも出てきたらどうしようかと涼太は考えた。荒れた屋敷は、幽霊が住処にしていてもおかしくはない気配が充満していたのだ。
「すみません!誰かいらっしゃいませんか!!」
声を張り上げて、涼太は人を呼んだ。常識的に考えれば誰かはいるだろうが、屋敷の様子から人がいるとは思えなかった。無人の屋敷だと言われた方が、しっくりくる。だが、しばらく待つと屋敷の戸が開かれる。戸を開いたのは勤勉そうな男だった。
「もしや……新しく隊員となる」
男は人目で涼太が新人だと見抜いたようだった。というか、この幽霊屋敷には来訪の目的を持たない人間以外は近寄らないのであろう。涼太も用事がなければ、近づきたくない。
「はい、涼太です」
涼太は、頭を下げた。
目の前の彼が、先輩であることは間違いなかったからだ。
「私は貞宗と申します」
貞宗と名乗った男は、三十代ぐらいの歳の男だった。定火消というよりも商家でそろばんをはじいているほうが似合いそうな真面目な雰囲気である。さすがに眼鏡はかけていないが、かけていても似合いそうな外見だった。
「あの隊長は……」
「迷子です」
貞宗は、はっきりとそう言った。
涼太は意味が分からなかった。
「あの……」
「迷子です」
聞き返す前に断言された。
迷子というのは、子供がなるものだと思っていたがどうやら涼太の認識が間違っていたらしい。地位のある大人もなるようだ。……そんなわけがない。
涼太は思わず自分自身にツッコみを入れる。
それぐらいに衝撃的な話であった。
「大人が迷子ですか?」
念のためもう一度だけ聞き返してみる。
もしかしたら、なにかの暗喩なのかもしれない。鴉隊にしか伝わらない暗号という可能性も捨てきれない。お願いだから、そうであってくれと涼太は考えた。
「あの人は、極度の方向音痴なのです。まっすぐに目的地にたどり着けたことがありません。そのため、日中は目的なく走り回っています」
目的を持ってもたどり着けないので、と貞宗は言った。
どうやら迷子というのは、本来の意味の正しい使い方だったらしい。
「ご存じだと思いますが、鴉隊は縄張りを持たない唯一の隊です」
貞宗の説明に、貞宗は頷く。
青龍が東。朱雀は南。白虎が西。玄武が北というふうに、隊ごとに縄張りが決まっている。その縄張りに鬼がでたら、担当の部隊がまずは対応するのだ。
だが、鴉隊のみ縄張りを持たない。常に江戸中を警戒しており、鬼が発生すればどこかでも駆けつけるという部隊なのだ。
鬼の出現を嗅ぎわせる感覚の鋭敏さ。
現場に駆け付ける俊敏さ。
その二点から、本当に残飯を嗅ぎつけるカラスのようだと揶揄されることすらあるのが鴉隊である。
「その理由は縄張りを持たせても隊長がすぐにそこから出てくるのです。でていって、他の縄張りの鬼まで倒してしまう……」
貞宗が困ったような顔をした。
鴉隊が縄張りを持たない、その理由の真相がまさか隊長の方向音痴からくるものだとは思わなかった。
「じゃあ、隊長は?」
「言ったでしょう。迷子中です。まぁ、普段は迷子とは言わずに警邏中と言いますが」
貞宗も一応外聞を気にしてくれるらしい。
隊長が迷子というのは、あまりにも恰好が悪い。
「隊長がいないということは、どうすればいいんでしょうか?」
涼太は困ってしまった。
隊長に仕事を言われると思っていたのに、その隊長がいつ帰ってくるかも分からないなんて。貞宗は悩んだあげく「とりあえず、草むしりをお願いします」と言った。その仕事は屋敷に足を踏み入れたときから、なんとなく察していた仕事であった。
結局、今日の仕事は草むしりだけで終わった。
そして隊長は迷子になって帰ってこれなくなっているらしく、涼太が帰る夕方まで姿を現さなかった。隊長は屋敷に住んでいるので、明日は会えるだろうと思った。ところが隊長は、その後一週間もずっと迷子になって自分が住んでいる屋敷に戻ることはなかった。涼太は思った。これはすでに遭難なのではないだろうか、と。
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